『君の名は。』、観後。

≪このエントリはネタバレ満載なので、ご了承下さい≫

 『星のこえ』で驚いて以来、『雲のむこう...』、『秒速...』と観て、しばらく作品を観ていなかった新海誠監督の新作。名作でした。
 小生が本作を名作と断ずる所以は、本作がオーソドックスなストーリーラインを堂々と描ききったという一点にあります。しかも、そのために実に計算された、周到な、独自の工夫を施して。
 それにしても、映画を見て号泣したというのは久しぶりの体験でした。気持ちよかった。


■物語として『オーソドックスである』ということ
 本作の魅力を、小生は、『オーソドックスなストーリーラインを堂々と描ききる』と表現しました。実は、これは簡単なことのようで簡単ではない。
 いろいろなクリエイタがいるので一括りにはできませんが、小生の観るところ、クリエイタには観客を驚かせたいという誘引力が働くことが多いようです。それがクリエイタの観客への支配欲ゆえなのか、創造力勝負に勝ちたいという競争欲ゆえなのか、あるいは単にサービス精神なのかはよくわかりませんが。この誘引力に多くのクリエイタは負けて、『アッという結末』へと観客を導きます。その結果、『アッ』というどころか、なんとも共感できないラストシーンに観客は拍子抜けしたり、疲れたり、敗北感を感じたりします。つまり、観て幸せになれないわけです。
 こういう意欲に駆られたクリエイタにしてみれば、ハリウッド映画や時代劇によく見られるありきたりの『オーソドックスなストーリーライン』は、つまらないもの、誰でもできるものなんでしょう。でも、実際はそうではない。むしろありきたりのものだからこそ、それをきちんと描く行為は難しいのだと思います。(だいたい、そうしてオーソドックスを嫌う人が、オーソドックスをちゃんと描く行為と向き合ったことってないんじゃないかと思うんですね。ええ、ここは悪意ある推定ですが)
 別に『作品を観る』という行為は、クリエイタ(作家、作り手)と観客(受け手)の闘いではないと思います。


■『お手盛り感』をどう受け止めるか
 『君の名は。』は名作です。そして、そのストーリーラインは実は意外と陳腐です。
 作品は、よくある『男女入れ替わりもの』として始まり、淡い恋を経て、『過去改変もの』へと展開します。前後のモードチェンジこそ本作の独自性でしょうが、前後それぞれよくあるパターンなので、それほど驚きはしません。御都合主義的展開も多く、お手盛り感も満載です。
 しかし、それだけではないのが本作のすごさでした。いや、それを乗り越える力に満ちています。
 お手盛り感と言いましたが、それは丁寧な伏線=回収の作業でもあります。二人が持っているスマホの機種、街の建物などの描写に、作品の核心である『3年』はきちんと描かれていた。一つ一つ作品世界のご開帳がされる度に、その丁寧な作業を観客は見出すわけです。これは作品世界に観客を巻き込むことに大きな効果を発揮しますが、本作ではそれがいかんなく発揮されます。こうなると『御都合主義』ではなく、作品の世界設計そのものが鑑賞対象となってくるわけです。ここら辺、小林靖子作品なんかにも通じるところがありますね。
 そしてストーリーライン。新海誠は、観客の期待を裏切らず、『過去改変』の成功へと物語を導きます。きちんと『ギリギリ感』を描きながら、きちんと登場人物たちにその大業を成就させきります。いや、それはいいのですが、その最後にある主人公の邂逅を描ききったことこそ、小生が本作を名作と断ずる所以です。

■過去改変ラブストーリーの一つとしての『君の名は。
 『過去改変もの』の王道は、『過去改変』により主人公たちは救われるものの、『過去』によってこそ主人公たちの邂逅があったがゆえに、全てが『なかったこと』になるという悲劇のカタルシスです。それは、主人公たちが恋愛関係にあれば、『別れ』の涙にもなります。いえ、それは観客の視点からであって、なかったことになった主人公たちにとっては出会いもしなかったのだから別れもなかったわけで、主人公たちはその悲劇を知らないからこそ、観客はなお泣けるのですが。
 しかし、本作の最後で、二人は『出会い』ます。きちんと。偶然ではなく。作品の必然として。それが本作の核心であり、作品世界の長い旅が成就したそこに、観客は幸せの涙を流すわけです。
 実は、白状すると、小生は観了した瞬間は、ここに御都合主義の違和感の欠片を感じていたのですが、今はそれは氷解しています。というのも、『過去改編』に成功したにも拘わらず、二人が物語で描かれた時間軸かずれなかったのはどうしてか、に得心がいったからです。
 それは『3年のずれ』にあります。
 通常の『過去改編もの』では、物語は『過去事件』の後に起きます。しかも、タイムパラドクスを回避するため、過去への関与は限定的で、未来者の行為がなくてもまぁなんとかなるようになっています。だからこそ、『過去改編』によって大きく違った可能性の方向へと時間は流れる、或いは無限のバリエーションの中で大きく違った方向のものが選択されるわけです。
 しかし、本作ではこれは『3年』の時をはさんだ二人の共同作業です。従って、『過去改編』に成功しても、その共同作業は存在しなくてはならない。言い換えると、無限のバリエーションの中で、その共同作業が存在するものしか選択され得ない。『電王』的に言えば、これが特異点になったわけです。
 『3年』という時空を超えた共同作業、そして作業対象が『彗星衝突の回避』ではなく『町民全滅の回避』であったというのは、こうした『成就』のストーリーラインを描くための巧妙な選択だったと言えましょう。
 この設計に、小生は唸っています。

■『成就』の希求、或いはチープなファンタシー
 ただ、こう書くと激しいツッコミを受けそうだな。うん。
 というのも、通常の『過去改編もの』だって、冷静に考えると『なかったこと』になるはずは本当はないからです。そうそう、その通り。だから、意外と最後のオチは不自然になっている。それを『歴史の治癒力』とかなんとかいう言葉で納得させようとするわけです。
 そんな無理をしながら、それでも多くの『過去改編もの』が作品の時間軸そのものの消去でおわるとするというのは、そこに『悲劇』への引力が働いていることを意味しているのかもしれません。そして、本作では『悲劇』ではなく、『成就』の希求という引力が働いているということなのでしょう。
 『過去改変もの』としては、『時をかける少女』よりも、『JIN』に近いラインだと思います。
 しかも、新海誠は今回、その邂逅を描ききっている。
 いや、描かないという選択肢もあったはずです。暗示で終わるとか、邂逅の直前で映像を終わらせるとか。そういう『観客に解釈を預ける』やり方をとらず、最後まで邂逅を描ききり、そして最後の言葉を『あれ』で締める。見事です。これを『描ききる』といわずに何と言えばいいのでしょうか。


■『シン・ゴジラ』と無理矢理比べてみる
 同時期に公開された『シン・ゴジラ』と比較するコメントを小生もいくつか目にしました。曰く、秘密主義で観客を煽った『シン・ゴジラ』とメディアミックスで観客を動員できた本作、或いは製作委員会方式を採らず作家主義で成功した『シン・ゴジラ』と製作委員会方式で作家性を制御できて成功した本作、etc。それはそうなのだろうと思います。
 作品としては、SFラブストーリーである本作と、怪獣パニック映画である『シン・ゴジラ』を比べるのは余りにフェアじゃないと思います。そりゃ、バレーボールと体操の金メダルを比べるくらいフェアじゃない。
 でも、敢えて言えば、小生は『君の名は。』に軍配を上げます。
 『シン・ゴジラ』は、現実との連続性の打ち方に細かく拘った作品です。そういう意味では、『考証の楽しさ』に満ちています。細かい『嘘』は計算の範囲内で、ファンへのネタ提供、仕掛けです。それでいて『現実感』を醸し出すのが『シン・ゴジラ』のエンターテイメントとしての真骨頂です。いわば、ファンコミュニティの相互効果を最大化することをヒットのメカニズムとして採用しており、実に現代的(古くは『オタク(マニア)受け』とか言われた)な戦略です。
 ただ、その分、ストーリーラインは実につまらない。ええ、ゴジラ映画なんですからね、そこは仕方ない。それは庵野秀明のせいでも、樋口真嗣のせいでもないと思います。
 しかし、『君の名は。』はストーリーラインで魅せる。そこでの『現実感』は作品世界に閉じたもので、『現実』との連続性はたいして重視されてはいません。小生自身が『御都合主義』と言い表していますが、虚構そのものの設計鑑賞に呑み込まれない人には、陳腐で、辛くてたまらないかもしれませんね。ただ、小生は呑み込まれ得る人ですし、これが小生のテイストには合うのでしょう。
 まぁ、それにしても、よくもまぁこの対称的な2作品が同じ夏に世に出たものだと思いますよ。うん。


 そんなこんなで、いろいろ書きましたが、とにかく、本作は名作だと思います。
 多分、『カリオストロの城』に続き、幾度も見直す作品になるでしょう。

 

小保方論文問題に見る科学者と職人の違い

 STAP細胞に関する小保方論文を巡る一連の事案を、筆者も強い関心を持って眺めている一人だ。4月9日の会見はマスメディアも大きく取り上げているが、結局のところ、何も新しい証拠は提示されなかった。
 会見のやりとりを確認して一つ自分なりに確信したことは、小保方氏は科学者ではなく、職人だったということだ。

 会見が、論文において不適切なデータ(画像)を使用したことに故意はなかったということを主張したいだけのものだったことは事前のコメントでもわかっていたし、それは会見のやりとりを眺めても確認できる。加えて、STAP細胞作成には数百回成功しており、第三者の追試成功もあること、今後の研究のために今は秘密にしておきたいからそのデータや実験のすべては公開できないこと等が主張された。
 小保方氏は、論文の是非は決定的な問題ではなく(体裁の問題にすぎず)、STAP細胞を作成できたことを評価すべきだと主張する。それは科学者の態度ではなく、職人の態度である。

 科学に限らず学者の世界は、専門家の相互承認、相互評価で成り立っている。そして自然科学の場合は、自然現象の説明(仮説)の提示と、別の自然現象をもってなされる仮説の証明からなる。それにより、適用の範囲の広狭はあれ、その仮説は自然法則と見なされるわけだ。それを文書として現したのが論文であり、専門家の相互承認、評価の対象も原則、その論文である。
 これは万全ではない。論文が拙くて理解されず、いやそれどころか論文を評価すべき他の学者が理解できる水準に達していなかったため長い間放置された重要論文や、出すべき学会(読ませるべき専門家)を間違えたり、古くは地理的距離などで届かなかった論文だってある。党派的力学で黙殺された論文もある。この相互評価システムは悲劇に満ちている。しかし、それよりもよい確認方法がない。だからそれをやっている。
 だから、論文は、その研究の当事者ではない専門家が、それを読むことで、仮説と、論文のむこうにある自分がやっていない検証の確認をする場だ。データが不適切であるということは、先ほど触れたような悲劇云々のレベルではなく、証明が「自然現象」によってなされていることに大きな疑いを生じるので、論文としてはそもそも評価の俎上に上らない。

 職人の世界はそれと異なる。職人は、科学者と同じように自然現象を扱っていても、摂理を解明する世界ではなく、何かを作ってみせる世界である。その方法は誰に評価されずとも、その成果物だけで評価されることになる。作成法を表現することも、しないことも自由である。いや、表現できなくても構わない。そこは全く評価の対象ではないからだ。

 これはちょうど、試合としての格闘技と、勝負としての格闘技の問題に似ている。ルール違反をしたら試合としての格闘技なら負けであるが、ルール違反かどうかと勝負に勝つかどうかとはまた別の問題だ。両者はどちらよい、悪いではなく、同じ体術を巡る違う価値観の存在なのである。

 論文としては間違いだが、確かにSTAP細胞を作成する手法は確立しているので、自分を評価しろというのは、極めて残念なことに、明らかに職人の態度である。

 ここで極めて残念といったのは、STAP細胞の作成手法はそれだけでは職人的成功をもたらさず、まだSTAP幹細胞の作成にまで高められるべき途中段階のものだからだ。これだけでは職人としての成功にはまだ直結していない。
 そういう意味では、通常であれば、これは科学者の次元で評価され、また小保方氏本人か第三者の手によって発展していくべきものなのだ。しかし、それを見つけた人が、科学者としての資質を満たさず、いち職人であった。これはSTAP細胞という技術の可能性を考える時、残念極まりないとは思う。
 
 だからこそ、筆者は最後まで小保方氏が自分は論文作りは不得手なので、せめて公開実験で自分がSTAP細胞を作成できたことを証明していくと言うことに期待していた。それは、論文とは別の形の知見の公開で、それなら論文作りは稚拙だが科学者の精神だけは持っていると言っても良いと思ったからだ。だが、それを小保方氏は拒み、知見を自らの懐に隠そうとした。
 小保方氏は「今後の研究のため」もあって全てを公開はできないと言っていると思うが、残念ながら、科学者として公的研究費によって「今後の研究」をやる機会はないと思う。多分、研究者の道を目指すことは、小保方氏の技能と考え方には相性がよくないようだ。

 ただし、小保方氏は職人として、企業やその他の私的原理に基づく空間の中で研究を続けていくことはできるし、その方がよいのではないだろうか?
 だから、小保方氏がかわいそうだと思う人は、是非、小保方氏を助けてあげればよいのだ。一番わかり安いのは、支援者が出資金を出して「株式会社小保方STAP製作所」を作ることではないだろうか。あるいは、余裕がある企業なら小保方氏をそのまま招聘して雇用してしまえばいい。
 それで小保方氏が科学者になれるわけでもないし、公的研究資金が支給されるわけでもないけれど、それによって小保方氏はSTAP細胞を作る研究ができるだろうし、それによって小保方氏がひょっとしたらSTAP幹細胞を作成するノウ・ハウを開発し、STAP幹細胞を世の中に大量に供給できるかもしれない。それは社会にとって素晴らしいことだし、そこから得られる利益を出資者=支援者に配当できれば、支援者にとってもよいことだろう。
 職人には職人としての成功の道が、科学者には科学者としての成功の道がある。職人が科学者としての成功を無理に追求しても、悲劇(か喜劇)にしかならない。是非、小保方氏には職人としての成功を目指していただきたい。





(附言1) 論文の「不正」性について
 小保方氏が主張する論文作成上の不適切な方法についての法的評価に関して、筆者はあまり言うことはない。その主観としての害意や、気づいていたかどうか、故意の有無について、筆者は断ずべき基準も、断ずべき根拠情報も持っていない。
 しかし、言いたいことは二つある。
 一つは、筆者は、誰かの主観を第三者が確定することは原理上あり得ないと思う。しかし、裁判はそれをしている。それを行為者の反論より優先させて「事実」としてとりあえず措定し、世の中を前に進ませようというのがその考えである。それは問題にされているご本人や、その代理人である弁護士の方が納得するかどうかとは別の次元の問題である。
 もう一つは、科学者の世界が論文を軸に回っていること、それゆえ論文の書き方には一定のルールがあることは博士号をとる等のプロセスの中で科学者には当然理解されているはずのものだということだ。小保方氏は「未熟」と繰り返すが、結果的にそれを逸脱した以上、重過失は認められると言わざるを得ない。
 そして、少なくとも学者コミュニティの相互承認、相互評価が評価の本質であり、この論文が「不正」であるかどうか、小保方氏の主張をどう判断するかは、小保方氏を今後も科学者として認めていくかということと同様、最終的には科学者コミュニティが自由に判断してよい問題だ。
 おそらく理研は、今、小保方氏と並んで、この科学者コミュニティの評価に晒されているのだろう。その中で科学者コミュニティの一部として小保方氏を評価すべきか、小保方氏の雇用者として職員をどう評価すべきか、などいくつかの立場の選択を迫られているのだろうと思う。しかし、この点については筆者の興味の範疇ではない。

(附言2) 剽窃という事象について
 論文や、それを含む著作物一般について、時折「剽窃」ということが問題になる。
 論文や著作物の出来を自らの利益(金銭的収入であれ、名望であれ)にするというしくみの中で、自分が本当に付加した部分がどこかを明らかにせず、他者の利益を横取りする行為を指す。これにはおそらく二つの態度があり、著作権法は、厳密に言うなら、本来の論文等著作物作成者の許諾を得ているなら構わないのだろうが、無許諾で行うならば問題だということで、他人の論文等著作物から一部であれば無許諾で取り込むこと(引用)を認める代わりに、どこから取り込んだかを明示するなどの条件を付けている。学者の世界では、その人のではなく、その個々の論文の付加価値が問題になるので、誰の論文かは問わず(たとえ自分の論文であっても)引用には引用元の明示を求める。この引用のルールに従わない、他の論文等著作物からの一部又は全部の取り込みを「剽窃」と呼ぶ。
 小保方氏が剽窃を行ったとすれば、その科学者としての資質に疑義がはさまれても仕方ない。それは科学者コミュニティが小保方氏を今後どうあつかっていくかという自由判断の中に加味されるだろう。それ以上でも、それ以下でもない。

(附言3) 特許制度と科学者の態度、職人の態度の関係について
 現代社会の法制度は、科学者の態度と職人の態度をうまく組み合わせるために、特許という考え方を導入している。科学者のように、ノウ・ハウをうまく表現して開放することで何らかの利益(多くの場合、特許使用料)を得られるようにすれば、職人が作成行為を独占しなくなるのではないか、という期待がそこにはある。
 このしくみは、密室に生きる職人を科学者の公開の世界に引っ張り出し、科学者の仕事と職人の仕事を融合する効果を持ったが、同時に科学者に研究の全容を論文に書かない、部分的にしか公開しないという職人的傾向を混濁させる効果も生んでしまったようにも思う。それゆえ、本来の科学者の世界観を理解せずに、こうした目の前で起きていることだけから「我流」で「科学者の態度」を学んでしまう(学んだ気になってしまう)と、そこを何とか維持するための論文の書き方(データの取扱い、他の論文等著作物の記載を流用するさいの取扱いなど)などのルールもどうでもよく思えてしまい、該かも職人が科学者を称してよいかのような誤解を生むのかもしれない。

(附言4) 職人と技術者の違いについて
 筆者はここでノウ・ハウをコンテンツ化する責務の有無という点で、これを負わない人という意味で「職人」という言葉を使った。「技術者」はこの点で、そのノウ・ハウを己の属する組織やグループの範囲では共有し、後継者を作る責務を負うと思うので、「科学者」ほどオープンではないにしろ、「職人」とは少し違うと筆者は思っている。

「チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド」読後

 ゲンロンが刊行した思想地図β vol.4-1 「チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド」を入手した。


 「ダークツーリズム・ガイド」とあるが、実は今回のプロジェクトに触れるまで私は「ダークツーリズム」という概念を知らなかった。確かに原爆ドームをはじめとする様々な観光施設を貫く見方として面白い。
 この本は、家族で読ませていただいた。今も、私の自室ではなく、居間におかれている。家人が読むほど、この本は一つのテーマに沿ったガイドブックとして、きちんとできている。「関東日帰り温泉ガイド」と、その意味では、同列に扱ってよいのだろう。装丁やデザインに奮闘しただろうゲンロン関係者の努力がうかがわれる。


 もちろん、本書の目的はそこではなく、観光地化していくチェルノブイリ原子力発電所ルポルタージュしながら、そこにフクシマを重ねあわせていこうという作業の第一段階ということだ。だから、そういう意味での本書の感想は、続く思想地図βvol.4-2を踏まえなければ書くべきではないのかもしれない。


 だから、この感想は途中段階のものであることは、ご了承願いたい。


 ラカンは、人は、現実の事象をそれ自体としては受け止められず、現実は解釈され、位置づけられた形でのみ、受け止めることができると言う。我々が現実と思っているのはこの解釈され、位置づけられたものに過ぎず、その向こうにある「現実の事象」に触れることはできないのだ、という。
 「チェルノブイリ原子力発電所事故」という事象もまた、そうなのだろう。
 あの事故の理由を問えば、事故の経緯から、その背景たる発電所運営の話、或いはそもそもの原子力による発電事業や国家体制に至るまで、どこまでも問いは深まる。しかし、その問いをどれほど繰り返しても、チェルノブイリで起きたことの理解にはつながらない。
 「チェルノブイリ原子力発電所事故」は、解釈しきれないもの、位置づけられ得ない「現実の事象」として、彼らにとっては手に余るものだろう。だが、それをしなくては前には進めない。
 そして、それを解釈し、位置づけるための方法は、いくつもの形があるだろう。その一つが、観光地化であったと私には読める。
 もちろん、「観光地化」が唯一の、或いは最良の方法ではなかったかもしれない。政治的運動に昇華しようとする者、むしろ忘れようとする者、様々いると思う。そういう意味では、今、ウクライナ国立チェルノブイリ博物館を運営している人たちも、現地の様々な人たちとの軋轢の中に居るのだろう。
 「フクシマ」も同じだ。チェルノブイリの方が少しだけ年月を経ているというだけで、その事象の大きさ、問いに駆られる衝動、その問いの深さ、そしてそれが乗り越えるためにあんまり役に立たないことなど、恐らくかなり同じだ。
 ゲンロンチームは、そこで一つの乗り越えるための一つのアイデア、自分たちなりに「福島第一原子力発電所事故」を解釈し、位置づけるための手法として、それを観光地として表現していくことを提案しているのだと思う。
 「フクシマ」に事故以前の暮らしは多分、帰ってこない。もちろん、それなりに帰還はできるだろうが、「立ち入り禁止」という場所は多分残るし、中には世代が変わらないと帰れない場所も出てくるかもしれない。つまり、傷跡は絶対に残る。
 その中で、その傷跡を、ポジティブに、つまり日々生活をしていくために前向きに結んでいかなくてはいけないものとして受け止めるために、確かに「観光地化」は一つの提案だと思う。
 確かに、この本が見せるチェルノブイリの「今」は私には希望を与えてくれている。描かれた人々は、前を向いている。このチェルノブイリを、おそらくは憎みつつ、できれば葬り去ろうと思いながら、しかし、それと共存して今の暮らしを紡いでいる。当たり前のことかもしれないが、笑顔すらあるのは、私にも救いだ。
 もちろん、現時点で、この提案に眉をひそめる人たちは少なくないだろう。まだ問い続けたい、あるいは忘れたい、ひょっとしたら悲劇と位置づけ自分たちが政治闘争するという形で未来に一歩を踏み出すための糧としたい。いろいろな考え方があるだろう。
 けれど、私は、この「観光地化」という提案は一考に値すると思う。
 確かに、その意味ではまだ「フクイチ」の解釈、位置づけの方法には答えを出す時期ではないのかもしれない。或いは、それは幾通りもあり得るもので、そもそも一つにまとめるものではないのかもしれない。
 そうであればこそ、「福島第一原子力発電所事故」の「観光地化」に眉をひそめる人ほど、今はこの本を罵倒するのではなく、一読後、しばし本棚にしまったまま、語れる時が来るのを待つべきだと思う。この本は、そういう重さの本であるように感じた。


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「ウェブで政治を動かす!」読後

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくです。


 さて、今年の最初のブログの更新は、津田大介氏の「ウェブで政治を動かす!」を読んでの感想からはじめたいと思う。

 公共政策と特に関係はない学生や会社員、主婦、退職者などの方々には「動け!」という、とても明解なメッセージで満ちている本書は、その豊富な実例を分かりやすく紡げているという意味で、間違いなく良書である。


 だが、筆者にとって、この本は重い。とても重い。


 まず、筆者は20年近くも公共政策に仕事として関わってきた人間である。その意味で、本書が筆者に対して意味するところは、多分、これを読んでいる多くの人に対するそれとは少し違う。なぜなら、津田さんはあまり文字を割いて表現してはいないが、政策決定に於ける国会議員のあり方の背後には、国会議員と官僚組織の役割分担の問題が横たわっているからである。


 官僚機構のオープン化には、自分としても想いがなくはない。
 最初の機会は、まだ係長の頃、通商産業省(当時)に誕生した「政策評価広報課」の創設に自分も非公式ながらアイデア出しに関わったことだ。政策の失敗を如何に是正していくかという意味で起きた「政策評価」運動だったが、これがどうして「広報課」に託され「政策評価広報課」となったのか、変だと思わないか?だいたい、組織の名前としては余りにも据わりがよくないしw
 この名前には理由というか、思想があって、それは「政府機関は政策に関する情報発信を主体的になすべきであり、それに対する外部の反応が政策評価になる」という考えだった。「外へ情報を発信すること」=広報と、「外の情報を吸うこと」=政策評価は、呼吸のように一体だ、といってもよい。ここにおいて能動的な情報戦略が目指されたことは記憶に止めておくべきで、それゆえ、従来の「広報課」の仕事であった記者クラブ対応は「報道室*1」に格下げされたほどだ。
 次の機会は、Twitterをしていた2010年に@Unofficial_meti_botというアカウントを開設したことだ。これは、経済産業省の公式HPから吐き出されるRSSをもとに110字に成型し、全文が読めるURLを付けて誘導するごく単純なwebアプリで、筆者の性格らしく「にょ」という語尾を付けて配信されていた*2
 3.11の後ほどなく、現在の公式アカウント@meti_NIPPONが誕生した。それと共に、公式アカウントが開設されたことをもって、@Unofficial_meti_botは呟きを止めたのだが、実は、@Unofficial_meti_botは単に停止したのではない。@meti_NIPPONの極初期には、わずか1日かそこらだが、この@Unofficial_meti_botのエンジンが流用されていた時期がある。@Unofficial_meti_botは、全くの非公式アカウントながら、瞬間であれ実質的に公式アカウントになり、そして全ての使命を終えたという、とても幸せなアカウントになった。


 だが、こうした中で、官僚機構というのはオープンであることに大きな忌避感をもった組織であることもヒシヒシと感じていた。
 「政策評価広報課」が実際に立ち上がったのは筆者が中国に赴任した後のことだったが、帰国して「政策評価審議会」なるものが設置されていたことには絶句した。専門性をもって任ずる行政の仕事の評価は専門家に任せるべきだという説明だったが、その評価される側の行政が任じた専門家による行政評価というものについての評価は皆さんに委ねたい。ただ一つ言えることは、広報と政策評価は表裏一体との思想は、現実の組織運営には反映されることはなかったようだ、ということである。
 @meti_NIPPONの開設にあたっても、内部的には抵抗は小さくなかった。実現できたのは、当時の担当者の見識と、特に@open_metiを運営していた情報プロジェクト室の面々の情熱があったからである。
 

 こうした経験の中で、筆者が一つ確信していることがある。官僚機構は、問題の顕在化を極度に恐れるのは当然だが、何より、官僚機構に対する評価を外部に任せることを恐れる。どう思われるかが問題ではない。それが可視化されて、自分たちの目の前に現れることを恐れる。
 だが、国民と政治家と官僚組織の関係は一続きの方程式であり、一つが動けば全体の調整が起きる。官僚機構のオープン化は程度や手法の問題こそあれ*3、進めなければならない問題だろう。この難しい問題をあえてやれ、という津田さんの声は重くのしかかる。
 津田さんは、国民のアクションの直接の対象は国会議員を選ぶことという民主主義の側面を重視するので多くは語らないが、確実に、この本によって、官僚機構のオープン化も求めているのだと思うからだ。


 もう一つは、これまた自分の仕事に関することである。
 筆者は、今、ニコニコ動画の中でニュースや番組作りに関わっている。今回、ネット党首討論を始め、様々な形で選挙という政治プロセスに関わらせていただいているが、公職選挙法の問題は自分の仕事についても大きく影響を与えている。
 今回の総選挙でネット選挙解禁問題が喫緊の課題として浮かび上がったが、別に自民党みんなの党に言われなくても自分たちで言い出さねばならないと思っていたところである。政見放送の動画配信さえさせてもらえない現状は、ネットによる国民と候補者の間の新しいチャネルを開拓するとかいう新次元の問題ではなく、「政権放送」という映像による候補者情報と国民の公正な接触機会をより多くの人に提供するという古典的な意味においてすら適切ではないからだ。
 ただ、ネットと選挙の問題はもっと有機的なものに発展させられる可能性があり、それゆえ具体的にどうやってネット選挙を解禁していくかというと、いろいろ考えなくてはならないところが多い。現実論として、限定解除ではなく、公示期間から投票日までにネットをつかった意思表明を原則としてやっていいという前提の下、逆に何をやってはいけないかだけを決めるべきだと思うが、それを精査する検討を即座に開始しなくてはならないだろう。ネット上の「メディア」も、我がこととして、その検討には全面的に協力するべきだ、と筆者は考える。


 ただ、政府機関のオープン化も、ネット選挙の解禁もそうだが、単に自分がそうあるべきだと思い、提案するだけではかわり得ない。世耕議員が頑張るだけでは、岸本周平議員が頑張るだけでは、藤末健三議員が頑張るだけでは変わらないのと同様である。ことこういう問題について「中の人」の力は限定的なのだ。

 だから、本書を読んだ方は、是非、官僚機構のオープン化を求める声を上げていただきたい。ネット選挙の解禁を求める声を上げていただきたい。恐らく、その設計の矗一や、検討過程の一つ一つで、皆さんの声一つ一つを拾うことはないかもしれない。それは終章で橋本岳さんの意見や、そもそも一つの系の設計そのものが集団作業に馴染まないといった話で分かってもらえると思う。だが、それでも、状況は大きく改善するのではないかと思う。
 だから、まず声をあげてもらいたい。


 と思う。


 こういうことを書く気にさせる津田さんは本当にすごい人だよな。



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*1:報道機関のお世話しかしてないだろう?という嫌みでもある。

*2:余談だが、3.11で自分がメンテを行う余裕もない中、福島第一原発が危機に陥っていた時に「にょ」の文体で一日程度ではあるが呟きを続けてしまった。これには、設置者として関係者の方々に深くお詫びしたい。

*3:筆者は行政組織の情報はあらゆるものが全てオープンでなければならないと主張する者ではない。国家機密と呼ぶべきものは存在すると思うし。そこらへんは、ここでオープン化は「程度」を問うべきだと言っていることに込めているつもりである。なお、この点については津田さんも本書の中で指摘している。

大河ドラマ「平清盛」を駄作と認定します。

■まずはお疲れさま。
 23日、大河ドラマ平清盛」が終了しました。まずはお疲れさまではあります。
 一年の連続ドラマを作り上げるというのはそれだけでも大変な苦労で、スタッフの急遽変更もなく*1、最後まで走りきったことには評価をしたいと思います。一年間、毎週見せていただき、ありがとうございました。
 けれども、敢えて言わせていただきますが、今回の「平清盛」は駄作です。



■「平清盛」の時代
 「平清盛」は平安末期、武家の時代の始まりの頃です。
 この頃、日本各地は農耕化が進み、商品経済の段階にゆるゆる入っていきます。ところが、中央では律令制に基づく地方経営が蔑ろにされ、中央貴族自らが地方に律令支配に服さない私領地域=荘園を設定することに腐心します。中央から派遣される各国経営責任者である国司も地方経営するための資源が律令制から供給されないため、荘園の在地支配者と連携し、律令制を基盤としつつ荘園制を補完的に混合した不思議な秩序が作られています。
 そんな泥臭い地方経営に自ら携わることを好まない中央貴族は、代理人を派遣して自分は中央に留まり上納金だけを数えるやり方を選んだり、そもそも下級貴族を充てるようなやり方で地方から遊離していきます。この高級貴族の代理人や下級貴族として充てられたのが、中央の武家貴族ということになります。
 だから、「平清盛」で描かれた平家*2も、源氏もこの武家貴族*3です。
 次の時代、鎌倉時代は、律令制と荘園制の均衡はひっくり返り、荘園制を基盤として律令制を補完的に混合した秩序へと移行していきます。そのために、荘園制を支える中央政府が必要だったわけで、これが鎌倉幕府ということになります。



■清盛の選択
 「武士の世」が何なのか、ということは本作品のメインテーマの一つです。これを歴史から逆算すると、律令制中央政府武家が乗っ取るという選択をした清盛と、律令制中央政府に対峙する荘園制中央政府を作る選択をした頼朝との対立ということになります。本作品が最終的に両者の交代劇を描く以上、ここは避けて通れないテーマです。
 清盛率いる平家がこの地方経営に携わっていたことは、本作の中でもいろいろ言及されていたところです。実際に地方経営に関わるシーンは太宰大弐になったところとかいろいろありますが、彼自身はあまり地方には赴いてはいません。清盛は、史実から見ても、地方経営に自ら携わったことはあまりないようです。
 考えてみれば、中央の武家貴族はその意味では宙ぶらりんな存在です。武士は動員して恩賞を与える側=主君と動員に応じて参戦し恩賞をもらう側=郎党に別れ、これが固定化して「武士団」を形成するわけですが、各地で大規模な戦が起きると武士団を動員する主君が現れて大規模化階層化し、そのトップに君臨したのが武家の棟梁、ということになります。でも、結局はさらに高位の権力者に自分の束ねる武士たちの荘園経営受託を認めさせないといけないわけで、これが王家の犬とも呼ばれることの裏導線なわけですね。
 荘園経営の依頼者になるには地位が低く、荘園経営の受託者になるには地位が高すぎる。だからこそ、清盛はその武家の棟梁の力、すでに力を失った律令制軍制に変わって国家の武力を独占するその力を使って、自らがその高位につこうというわけです。



■清盛以外の選択
 しかし、武家の棟梁がその地位を確実なものにする方策として、清盛の選択が唯一の選択肢というわけではありません。それは史実が証明しています。
 源義朝の選択は、自分自身が地方に出向いて、在地の下級地主たちを束ねるというものでした。中央の目線から見れば格落ちになるのですが、血脈的に中央に繋がり、きちんと部下たちに成り代わって荘園経営を認めさせることができればそんなもんどうでもいいという考え方ですね。
 源義朝は、確かに中央での政争に敗れたせいではあるのですが、関東に赴いて在地の武士たち*4を中央貴族の威光もあってまとめることに成功します。まあ実際には暴れん坊の息子=鎌倉悪源太と一緒に在地のいろんなもめ事に介入し、暴れては勝って秩序を形成していく、という、今で言えば暴力団まがいのやり方をするわけですが、いずれにせよこれは義朝の力となり、平治の乱の際に動員された武力に地方武士団が多かったことはこれを示しています。
 息子の頼朝も、源平の争乱後、鎌倉幕府をあくまで地方政権として樹立し、けして京に移すことはしませんでした。これは平氏政権の顛末を理解していたからだと思いますが、もう一つの選択肢として、けして京に上らない最強の地方政権を目指した先例があったからという見方もできます。
 それが「第三の勢力」、奥州藤原氏です。
 奥州藤原氏は、その出自や確立の物語自体がとても面白い*5のですがそれはさておくと、蝦夷と蔑まれた辺境民*6政権なので、中央を牛耳るとか考えられない状態にありました。おまけに、京から遠い。そこで、どうも勝手に武家政権的なものを作っていたようです。
 平家は、しぶとく勃興する頼朝に対してこの奥州藤原氏を当てて牽制します。当主・藤原秀衡鎮守府将軍陸奥国司に任じたり、源義経を預けたりするのはこういう流れの中で起きた現象です。



■「平清盛」の時代の描き方について
 さて、問題は、大河ドラマ平清盛」がその時代をきちんと描けていたか、です。
 確認しておくと「平清盛」の最終地点は平家滅亡であり、そこまでを描ききることが目標です。すると、平家を滅亡させる源義朝・頼朝の力の源を本作品は描く必要があった。そして、できればその遠因であり当時の重要軍事勢力である奥州藤原氏のこともキチンと描く必要があった。
 しかし、実際はそれはほぼ等閑視されたと筆者は思っています。
 義朝の描写は、東に下り、一生懸命頑張ってました、はい東国のリーダーとして帰ってきて親父を倒しました、で終わり。鎌倉悪源太の物語など、後の鎌倉時代に繋がるいろいろ面白い東国の事件は一切無視。九州から駆けつける平治の乱の主役の一人である鎮西八郎為朝も、乱後、伊豆大島流罪になるものの、今度は大島を支配する領主のようになって反乱を起こすなど面白い話があるのですが、これも本作では無視。
 奥州藤原氏に至っては、金ぴかな色男が出てきておしまい。だから、奥州十七万騎を束ねる大将軍でありながら、賭けに勝って奥州を飛び出す義経に、よし軍勢を貸そう、といって付けたのが佐藤兄弟だけ、という不自然な描写になる。
 確かに清盛の視線は中央にあったでしょう。しかし、清盛が、或いは平家がひっくり返される原因は地方にあったわけです。別に武門なのに貴族化して武を失ったとかそういうことではなく、地方経営そのものから遊離したのだ、ということが全く本作品では描けていない。
 「平清盛」は、清盛と平家のホームドラマではない。清盛とライバルたちの駆け引きドラマでもない。それは「大河ドラマ」ではないと思うのです。清盛目線ではそうでも、清盛の目線を超えた視点から、清盛の見えていないところを描かないと大河ドラマにはならないのではないか、いや、歴史ドラマにすらならないのではないかと。
 過去の作品では言うに及ばず、近作では「篤姫」でも、「龍馬伝」でもそれはきちんと描かれていたように思います。できないはずはなかった。
 もうそんなの、なんで前半はあんなに天皇の色恋沙汰に時間を割いたのに、後半で武家のドラマを描かなかったのかとか文句を言う以前の問題で。はい。



■駄作ではあったが
 というわけで、そもそも物語の構成からして失敗していたと筆者は勝手に断じて、駄作認定をさせていただくわけですが、良い点がなかったわけではない。
 個人的には、本当に役者は良かった。松ケン/清盛も悪くないと思いますし、玉木/義朝も悪くなかった。第一、それぞれの親父、忠盛の中井貴一や為義の小日向さんがよい。岡田君の頼朝もよかった。
 だが、何より女優がよかった。和久井の池禅尼もよかったが、何といってもフカキョンの時子、杏の政子が抜群によい。この二人は筆者の中でははまり役。最終回なんて、時子の入水のシーンだけでもう満足。後はどうでもいいw
 画面が汚いのもよかったw。だいたい、平安時代なんて汚いですよ、それなりに。どっかの知事さんが怒ってらっしゃいましたが、放っておけばいいんだよ。ホント。


 というわけで、いろんなチャレンジはあったことを認めた上で、まずはお疲れさまでした。次の「八重の桜」はなんか面白くなさそうなのですっ飛ばして、「軍師官兵衛」を期待したいと思います。


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*1:評判の悪い作品の場合、てこ入れという名目でスタッフを急遽入れ替えるのはよくあることですし、ひどい場合にはスタッフが逃亡したりさじを投げたりして入れ替えせざるをえなくなることもあります。「炎立つ」の時は、原作者の仕事が間に合わず、最後は原作者の高橋克彦が原案者になってしまったなんていう笑えない話もあります。

*2:余談ですが、「平」を名乗る貴族はいろいろある中で、清盛に導かれて中央政権を担った一群を「平家」と言います。桓武天皇の後胤にあたる「桓武平氏」の中で、伊勢地方を基盤とした「伊勢平氏」のさらに一部です。

*3:因みに、平氏や源氏が興隆する以前、律令制がまだ元気だったころにも大伴氏とか和気氏、紀氏、坂上氏とかいろいろ武家貴族はいたのですが、この時代には一部が中央に文官化して残っていたり、或いは一族の自覚を失って拡散しており、もはや元気がありません。

*4:余談ですが、平将門の乱などでもわかるように本来関東は平氏一族が主流の世界で、源氏は義朝の五代前にあたる源頼義やその息子の曾祖父・八幡太郎義家の対奥州戦争の中で彼らを取り込んでいったわけです。ですから、北条氏を筆頭に、頼朝に縁が深い武将たちにも平氏系が多いです。

*5:一応は摂関藤原氏にも繋がる(といわれる)藤原秀郷流の藤原経清が如何に現地豪族に合流し、その息子が流転の果てに彼らを統合して奥州藤原氏政権を作るかという過程、いわゆる「前九年の役」「後三年の役」の話はバリ面白いので、詳しくは高橋克彦炎立つ」を読んでくださいw。

*6:やや和らげて表現してますが、当時の意識としては、ほぼ今でいう「異民族」と呼んでもよいのだと思います。

「風の陣」完結〜おつかれさまです!でも失敗作だったけど。

「風の陣」完結〜おつかれさまです!でも失敗作だったけど。

■「風の陣」とは
 「風の陣」といっても大方の方はご存じないと思いますが、高橋克彦氏(以下、敬称略)がここ数年取り組んできた歴史小説で、来年年初のNHK歴史ドラマにもなる「火怨〜北の燿星アテルイ」の前段階の話になります。「火怨」は、延暦年間陸奥国の阿弖流爲の乱の出発点を伊治呰麻呂の乱に置いています。「風の陣」の目的は、ここに至るまでの陸奥と、そして日本史の相関を描くことにあります。
 「風の陣」の主役は、道嶋嶋足。日本史上唯一、蝦夷出身でありながら平城京正四位上にまで出世し、主要国の国司を勤めた人物です。高橋は、彼に、陸奥を朝廷の理不尽な支配から救うために中央に上った蝦夷の義人、としての性格を負わせます。そこで道嶋嶋足は、坂上苅田麻呂吉備真備といった人物と交わりながら、時に伊治呰麻呂も巻き込みながら、藤原仲麻呂の乱道鏡にまつわるいくつもの政変に関与し、彼を通じて古代の政治史劇を描いていくわけです。

■「風の陣」のキャラクター像の建て付け
 「風の陣」の主役は三人います。
 一人は道嶋嶋足。これについては既に説明しましたね。
 もう一人は、狂言回しである物部天鈴。これは高橋の創作になるキャラクターです。高橋は、「火怨」のみならず、時代的には続く「炎立つ」まで、陸奥のリーダー達の影には常に物部氏がいるとしています。「火怨」で阿弖流爲達を父親のように支えた天鈴を、今回は野心溢れる青年として登場させています。物部氏は元来出雲系の豪族で、天皇家の侵攻を受けてこれと合流したものの、敗者として常に排斥され、なんとか中央に復権しても蘇我氏との対立でまた都を追われ、陸奥にたどり着いたという設定になっています。それゆえ、陸奥土着の蝦夷達とは違って中央との関係が深く、彼が道嶋嶋足伊治呰麻呂が中央と関わるときの導線役になっていきます。
 いま一人が伊治呰麻呂(作中では「鮮麻呂」)。「火怨」の冒頭を飾る「伊治公呰麻呂の乱」の首謀者ですが、高橋は彼に、兄貴分である道嶋嶋足を信頼しつつ、陸奥の現地で蝦夷社会の平安と発展に奔走する役割を負わせています。
 この道嶋嶋足と物部天鈴と伊治呰麻呂はいずれも主役=ヒーローであり、チームであり、最後まで反目はしません。しかし、このチームが運命づけられている未来は、全くバラバラの途なのです。
 この物語の終着駅としての「火怨」の時代。道嶋嶋足は、陸奥にはおらず、中央官人として東国や西国で国司をし、一生を終えようとしています。伊治呰麻呂は、我が身を賭して反乱を起こし、そのバトンを阿弖流爲達に渡して物語から退場しています(「風の陣」最終巻でその最後が暗示されますが)。そして、物部天鈴は、引き続き「火怨」にも登場して阿弖流爲達を最後まで支えます。
 ここにかつてのチームの面影はかけらもありません。

■「道嶋氏」と伊治呰麻呂の絶望
 「火怨」の冒頭では、おそらく前史を書こうとは思ってなかったのか、「風の陣」との接合部である伊治呰麻呂の乱の経緯や、それ以前の歴史に関する言及がかなりなされています。「呰麻呂も嶋足もバカだ。生きていれば。。。」とか「道嶋嶋足蝦夷にとっては口にするのも憚られる名となったが⋯」とか。
 これらの言及と、史実とを組み合わせて、一番問題になるのは、嶋足自身を含めた「道嶋氏」の立ち位置です。
 朝廷と蝦夷が対立を極めたこの時代、城の造営で貴族に列せられた道嶋三山、在庁官人として出世し呰麻呂に殺められた道嶋大楯、巣伏の戦い以降朝廷軍に常に名を連ね在庁官人として出世する道嶋御楯など、道嶋氏は常に朝廷側にいる。この立ち位置自体は史実なので変えられません。
 その道嶋氏の事実上の始まりが、他ならない嶋足です。そして、嶋足は、呰麻呂の反乱の時は播磨守を勤めており、陸奥に駆けつけてはいません。そのまま、呰麻呂の乱の三年後にこの世を去るのです。どう考えても陸奥蝦夷のリーダーの一人とは思えません。
 呰麻呂が敢えて道嶋大楯を殺めていることからも、それまで朝廷に与していた呰麻呂が翻意する原因となる深い絶望には、道嶋氏のあり方も与っていたはずです。嶋足と呰麻呂を結びつけている以上、嶋足に対するあきらめなどもあったはずです。
 けれども、道嶋嶋足の描き方は煮え切らない。

道嶋嶋足の人物像について〜「風の陣」の失敗
 道嶋嶋足陸奥蝦夷を見捨てた裏切り者に描かれるべきなのに描かれない。
 それもそのはずで、道嶋嶋足は「風の陣」5巻のうち4巻の主人公なんですから。ずっと蝦夷のために歯を食いしばって朝廷で頑張ってきたんですから。それもそのはずで、嶋足は正四位上という高位なのに、参議になるどころか、いつも官職はたいてい「員外」でまともな中央官人とも扱われることも少なく、高橋はそこに朝廷では蝦夷だと思われ続けていたという理由付けをしているわけですが、とにもかくにも作中ではいつも自分は蝦夷だと思い続けているのですから。
 急に最終巻になって、オイラ朝廷の人間だもんね、蝦夷なんて知らないもんね、とは言わせられない。
 でも、そう言わせないと、呰麻呂の絶望も、その後の道嶋氏のストーリーも、描けないのです。
 つまり、道嶋嶋足という人物を正々堂々、アンチヒーローとして描けなかった。別の言い方をすれば、道嶋嶋足というキャラクターに引っ張られすぎてしまった。
 だったら、せめて最終巻「裂心編」では、一章を割いてでも、嶋足が陸奥から離れていかなくてはならなかったかを描くべきだった。その方法はあったと思う。呰麻呂が平城京に上る行を書くのなら、嶋足が陸奥に関与できない理由を付けさせるべきだった。そして、嶋足が切歯扼腕して血の涙を流しながら、陸奥のことを叫ぶシーンを書くべきだった。そうでなければ、親友が反乱を起こして陸奥守を誅す(この際、不出来な異母弟が殺されたことはどうでもいい)という事態にあっても陸奥に赴かない蝦夷のヒーロー像は壊れてしまう。
 それは、単に道嶋嶋足のイメージを壊すだけでなく、「風の陣」の前4巻をないがしろにすることでもあったのだと思います。僕は、ここをもって「風の陣」は失敗したと思うのです。

■結語
 とはいえ、この時代を小説にしたのはこれが初めてではなかったでしょうか?
 そして、「炎立つ」「火怨」のファンとして、少なくとも「風の陣」という作品を楽しめたのは事実です。
 それだけでも、この古代蝦夷史を描いてくれたパイオニアである高橋克彦という作家には感謝したい気持ちでいっぱいです。
 おつかれさまでした。ありがとうございました。
 でも、この最終巻だけは封印をして、接合点は脳内補完しながら「火怨」上巻に読み繋げていきたいと思います。


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違法ダウンロード罰則規定の整備に関する若干の意見

 さて、本件については先月、報道を受けてひとしきり祭りがあったところであります(報道のまとめについては→ こちら)。GW明けに向けて何か動きがあるかなぁとか予感がするので、とりあえず自分なりに考えをまとめておく気になったので、久しぶりにブログ更新いたします。こういうことはTwitterではやりにくいですからね。

 まず、結論から言うと、現時点の案には反対であります。

 というと、「では、違法ダウンロードの横行に手を加えて見ていろと言うのか」という、これまたコンテンツ産業側に立つ身としては肯定できない脊髄反射的反論があるので、詳しめに自分の考えを書いておきます。


 まず、報道された以下の点をとりあえず前提にします。
 ■今回なされようとしているのは違法ダウンロード行為に罰則を付ける措置
 ■今次著作権法改正案を、自民、公明及び(賛成に転じた)民主党の議員提案にあわせて修正し、今国会で可決、成立させる。
 ■罰則は「2年以下の懲役または200万円以下の罰金」


理由その1:「その事実を知りながら」の解釈が不透明であること
■「その事実を知」ることには著作権者の意思表示が要ること
 著作権は私権であり、その限りにおいて権利行使はまず権利者の意志によることは当然です。ですから、その裏返しとしての違法行為処罰が権利者の申立てを待って行うことも、当然だと思います*1
 同時に、この権利者の意志は違法行為段階の犯意の前提としても必要だと小生は考えています。なぜならば、少なくとも現在の著作権の利活用の社会的バランスは、著作権者の黙認は権利不行使であるので不可罰ということを前提にしているからです。これは著作権の発生に無方式主義を採用し、かなり広範囲に権利性を認めていることの帰結だと思います。
 「違法ダウンロード行為」を規定する著作権法第30条第三号にある「著作権を侵害する自動公衆送信⋯を、その事実を知りながら行う場合」について、「その事実を知りながら行う」には、その前に行為者に対して届く形で、或いは少なくともそう擬制し得る方法で、権利者の意思表明があることを要求することになると思うのです。
■行為時前に「その事実を知」ることの難しさ〜罰則規定は実は空振りか?
 「その事実を知りながら行う」行為という規定は実はけっこう権利者の側にもハードな内容だと小生は考えています。まず、これはダウンロード時の認識を問うている*2ので、ダウンロードした後にその事実を知っても意味がない。でも、個々のダウンロード行為はどんな技術的措置を講じてもダウンロード「した」ことから明らかになるのであって、ここに大きな罠があります。つまり、権利者はおおよそまともな方法ではこの条文では違法ダウンロード行為を告発しようがない。
 権利者としては一つの方法が出来ないでもない。それは、自身のサイトで違法アップロード元を指摘したり、逆に全て違法とした上で合法的にダウンロードできるところを指摘することです。これは権利者としては精一杯のことでしょうが、逆に、行為者の側としては自分がこれからダウンロードするコンテンツの権利者が誰でその意思表示サイトがどこかを要求されるわけです。行為者にこれを実行することを、権利者の意思表示だけで「その事実を知りながら行」ったという認定の大前提として求められるかというと、これまたけっこうハードルが高いと思います。
 つまり、この状態で罰則を付加しても、適用のしようがない空振り規定になる可能性があります。小生は、その可能性は強いと思います。
■危険な解釈が発生する可能性
 さて、ここからは法律の解釈ではなく捜査や刑事訴訟の実務が絡むので、小生としてはやや想像も加えながらの話になります。詳しい方がいれば、コメントいただきたいところです。
 権利者側としてはこの罰則を適用したいと思うわけで、条規解釈のように厳密には解さず、例えば「ダウンロード元は違法サイトとして有名だ」とか、「ダウンロード元が違法アップロードであることは報道されていた」とか、或いは権利者が公開の意思表示がしていたことをもって権利者は警察に「告発」することになると思います。
 上に書いたことは小生の解釈にすぎず、実際の判断は裁判所が行います。
 しかし、その前提として、「告発」を受けて実際に捜査し、起訴するかは警察及び検察の仕事であります。警察及び検察が抑制的に振る舞ってくれればいいのですが、権利者に「告発」され突き上げられ何もしないわけにもいかなくなって、解釈の余地も広いことだし、裁判で十分説明は出来るとかなんとか思って起訴された日にはたまりません。まず、裁判所が行為者について「報道もあったし、行為者の意思表示もあったし、行為者は事前に知り得たはずだ」みたいな「その事実を知りながら行」ったかに関する緩い判断をする可能性がホントにないとはいえませんし、仮に裁判で無罪にはなったとしても「人柱」がでるわけですから。
 これは慎重論の一部にある、警察にHDDなどを押収させる根拠になるのではないかという話と通底する話であります。小生の関心はコンテンツ産業の環境整備に集中していることもあり、小生自身はあまりここを気にしてはいませんが、ここもそもそも本規定を具体案に適用するときに別件逮捕的に緩く適用するのではないかということに対する危惧であるように思います。
 ただ、これは警察や検察を批判しているわけではなく、こんな解釈の難しい案件を持ち込まれるのはたまらないだろうな、とやや同情していると思ってほしいです。
■つまりは
 本来、この規定をワークさせるためには、権利者に不可能とも言える負担を求めるような個々の行為者への事前通知を前提とせず、逆に行為者への不可能とも言える負担を求めるようなコンテンツの個々の権利者の意思表示の事前確認をも前提とせず、個々の行為者が個々の権利者の意思表示を知りうる環境整備が要る、と小生は思っています。もっともシンプルなものが、極々通常の負担で両者の間をつなぐシステム、つまり公的なコンテンツデータベースなんだろうと思うわけです。これについては「コンテンツの任意登録制」という言い方でもう10年位叫び続けているので、ここで敢えては再論しませんが。
 いずれにせよ、そうした環境整備がない状態で、これに単純に罰則規定が付けられ、具体的刑事裁判に持ち込まれることは、利用者の法的立場を不安定にするだけだと思います。
 まぁ、考えてみれば、こんな環境未整備な状態で現行第30条第三号のような規定を創設したのは、罰則がないからこそ許されたのだろうと思っている次第です。罰則を本当に作るのであれば、本来ならこの第30条第三号の規定そのものが問題にされるか、罰則の適用対象を第30条第三号からさらに絞り込むことになるかと思います。


理由その2:罰則の水準が高すぎること
 これは刑事法上の罪数論とも絡む所ですが、違法ダウンロード行為1回を一罪とすると、その行為で侵害された法益の大きさは、原則としてそれが正規に販売された場合に供給側が得られたであろう価額に留まると考えるべきです。音楽CDはもとより、書籍や映画、テレビゲームでも、頒価が200万円と比肩しうる商品なんてそうそうないと思います。
 いやいや、社会的秩序の毀損行為はそうした私権の侵害量に還元できないという意見もありうるかもしれません。しかし、電気事業法第115条にある「みだりに電気事業の用に供する電気工作物を操作して発電、変電、送電又は配電を妨害した者」でも「2年以下の懲役又は50万円以下の罰金」ということで、今回の提案より上限が低い。どちらが社会的秩序を毀損したかと問うまでもないと思います。
 なお、小生がこう反対するのは、そもそも違法アップロードが罰則をもって規制されているからであるのはもちろんです。一つのダウンロード行為が仮に違法であったとしても毀損される量は小さいですが、違法なコンテンツのアップロード行為は一つであっても多くのダウンロード行為を可能にするわけですから、より重く処罰されることは理解できます。また、アップロード行為はコンテンツの発信側に立つわけですから、適当かどうかは別として、産業界の一員としての負担を要求されるのも納得です。


理由その3:プロセスがおかしいこと
 国会に提出する法案には、大きく分けて内閣提出法案(通称:閣法)と議員提出法案(通称:衆法、参法、総称して議員立法)とに別れます。これは法案提出責任の違いから、そのプロセスも異なります。
 閣法は、各省庁の役人が企画、立案するもので、ただし役人自身には世の中に対する正統性がないという認識から、だいたいの場合は有識者や関連業界代表、消費者代表といった人々の合議による賛成を取り付けます(いわゆる審議会行政)。その後、内閣法制局の審査を受けて詳細な条文の詰めを行い、またそれと一部並行して各省庁に法案を提示して他の諸法との整合性をチェックします(いわゆる各省協議)。確かにアグレッシブな法案は出にくいですが、罰則水準や作ったはいいが使えない法律にならないかとかいうことはかなりチェックされますので、細部についての安心感はあります。
 議員立法は、国会議員が独自に企画、立案するもので、一定数(予算非関連法案で衆院は20名以上、参院は10名以上。予算関連ではそれぞれ50名以上、20名以上)の議員の署名を集めて提案されます。その過程で、衆院参院それぞれの法制局が法案の詰めをお手伝いしますが、各省協議のようなプロセスはないので、どうしても詰めは甘くなります。それゆえ、議員立法は「死んだ人間を生き返らせること以外はなんでもできる*3」と言われるくらいブレークスルーな立法がある反面、細部の安定性は低くなります。
 その善し悪しはともかくとして、両者にはそうした性格と責任の違いがあります。報道では、違法ダウンロード罰則規定整備については議員立法であるわけですが、それを与党が賛成したからといって、閣法としての検討をせずに、閣法である著作権法改正案に追加することは、その責任の所在を混乱させる極めてスジの悪い提案だと思います。自分が内閣法制局長官であれば、内閣法制局の審査を経ていない法案を閣法として提出することは、命を賭けても、もとい、少なくとも辞表を賭けて反対するべきことだろうと思います。


 というわけで、まとめてみれば、こういう理由で小生は報道されるところの違法ダウンロード罰則規定整備には反対なのです。では、これを全部クリアすればどうなるか。例えば、報道されている内容ではなく、
 ■違法ダウンロード行為に罰則を付ける措置を講ずる
 ■今次著作権法改正案は修正せずと議員提案は別ラインとし、計画された順に今国会で可決成立させる。
 ■罰則は次のパターンのいずれか
  ・処罰対象は公的意思表示機関*4に登録されダウンロード禁止(限定的にダウンロード=入手可能であるサイトがあればそこへのリンクも掲載すべき。これを「義務化」するかは判断。)と表明されているコンテンツに限定し、罰則水準は「10万円以下の罰金」
  ・処罰対象を常習の場合(摘発前に一定回数の事前警告を法定)に限り、罰則水準は「2年以下の懲役または100万円以下の罰金」(水準についてはもっと検討する必要があるけど)
 だったとしたら⋯。まぁ具体的規定を見ないと賛否は決められないのですが、たぶんこのラインなら賛成するだろうと思います。悩ましいけれど、きちんと配慮をした規定であれば利用者側に罰則をかけることもあり得ると小生は思っておりますので。これで消費者が離れ、産業として自殺行為だという意見もわかりますが、それは一義的には供給側が権利者としてどう対応するかの問題で、ストレートにいえば産業の自殺行為もまた産業史の一ページとして否定はできないところではあると思うからです。また、「ユーザー無罪」というのが、自分もユーザーとして、やや身勝手かとも思うところでもあります。


 さて、縷々書き連ねましたが、議員立法ということもあり、小生は何も知らない本件ですが、さて、何が出てくるんですかね⋯


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*1:その意味で、報道の「ネット上の反対が大きいことと、国会議員慎重派の意見に鑑み、親告罪とした」というのは明確に誤りだと思います。

*2:著作権法第30条三号は「自動公衆送信⋯を受信して行うデジタル方式の録音又は録画」で、一度ここをクリアすると、そこから連鎖する複製は「自動公衆送信⋯を受信して行うデジタル方式の録音又は録画」には当たらない単なる著作物のデジタル複製なので、すでにそれが私的使用を目的とする限り私的複製として第30条でOKだからです。

*3:かつては「男を女にすること以外はなんでもできる」と言われていたが、2003年に「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が議員立法で成立したため「男を女にすること」もやってのけてしまった、という逸話がある。

*4:公設である必要はなく、民間が設立したものを指定するのでも可。ただし、一覧性(一つのURLを叩けば全ての民間機関のデータベース内容が一度で検索できる)は最低限求めたい。