ダビ10延期(確実)の報を見たこと


 で、今日はブログまたはじめますよ〜ってな宣言が目的なのだが、なんといっても気になったのはダビ10延期というニュースである。
 この件に関して、両陣営のどちらかを批判する気は僕にはない。それは僕のカラーではない。ただ一つだけ嘆息せざるを得ないのは、また複製権が一人歩きしているなぁという思いに尽きる。


 法政の白田准教授の労作のおかげか、プロならば当然承知しているはずの著作権法の歴史的経緯論*1からすれば素人の戯言なのだが、ここであえて著作者のために著作権はあるのだと考えてみる。すると、経済関係の仕事をしてきた身としては、消費者がコンテンツを消費する(利用する、視聴する)ことによる対価を創造者は受けるべきで、そのための制度として著作権法を考えてしまう。
著作権法があくまでオフラインのアナログメディアを前提にしている限り、利用、視聴の状況を捕捉することはできないので、次善の策としてメディアの複製を利用、視聴数の基準と考えることは、一つの考え方である。
 他方で、事前に生産コストとして著作物利用対価の支払いが完了しているパッケージメディアを長いこと使ってきた消費者に対して、この考え方は一度メディアを購入すれば、自由に購入者は使ってよいということだという考え方も惹起した。これは自動車やノートのような物財の考え方に影響を受けている。もちろん、どの程度自由に使ってよいのかは売買時の合意で拘束できるのであって、そこには暗黙の合意も含まれる。この「暗黙」というヤツが曲者だ。
 購入者は、この「暗黙」をなるべく広く考える。とはいえ、他人に見せたり、勝手に複製物を売ったりすることはいけないと、いかな購入者とはいえわかっているようだ。あくまで問題は「個人的な利用」の場合である。販売者は、「暗黙」を狭く考える。著作権法に書いてある例外(著作権法第31条)からはびた一文引かないぜ、という態度もあながち理由がないわけではない。「暗黙」なので、その齟齬は表面化しないまま時を過ごす。いざ問題が起きて、それぞれが自分に都合の良い「常識」、つまり「暗黙の合意」を主張する。
 コピーワンスも、ダビング10も、この複製権を、「利用回数の擬似カウント」という本来の役割を越えて、法文通り活用しようとすることで生まれた議論である。もちろん、現在その対局でこの問題とリンクが張られてしまった私的録音録画補償金の問題もここに碇を降ろしている。


 複製権は、すでに自己疎外を起こしているようだ。


 どちらの言い分も分かるから、ここでどちらを批判することはしない。特に批判の矢面に立つJASRACや芸能プロのような「権利者ではないが権利を振りかざすヤツ」について言えば、何といっても彼らにとっては法律で認められた権限を最大限活用して最大の収益をクライアントにもたらすことが責務である以上、複製権を最大限に振りかざすのはむしろ当然である*2
 だが、そうした立場、立場の議論を越えて思うことは、たまたま著作権法なんてヤツが規定した複製したかどうかという基準ではなく、他人が利用したことを以て収入が自動的に得られるような仕組みを作りたいものだなぁということだ。
 その時、現行の著作権法は、部分的にであれ、ようやくお役御免と相成るのかもしれない。
 大事なことは著作権でも、著作権法でもない。制作資金が調達されてコンテンツが生まれ、流通し、消費されていく「サイクル」がより円滑に回るようなしくみが大事なのだ。そう僕は思っている。




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*1:著作権法は出版事業者の業界間秩序を形成するために作られた法であり、現在に至るまでメディア事業者のための法律である。たまたま著作者の権利を基に論理構成されているが.それはまぁ御題目である。

*2:じゃぁ、クライアントたる権利者がそんなに権利行使しなくていいよ〜といったらどうするんだ?という意地悪な質問もあり、だ。この場合、僕はその人については権利行使する根拠を失うのだ、と思う。蒼いと思うかい?