『君の名は。』、観後。

≪このエントリはネタバレ満載なので、ご了承下さい≫

 『星のこえ』で驚いて以来、『雲のむこう...』、『秒速...』と観て、しばらく作品を観ていなかった新海誠監督の新作。名作でした。
 小生が本作を名作と断ずる所以は、本作がオーソドックスなストーリーラインを堂々と描ききったという一点にあります。しかも、そのために実に計算された、周到な、独自の工夫を施して。
 それにしても、映画を見て号泣したというのは久しぶりの体験でした。気持ちよかった。


■物語として『オーソドックスである』ということ
 本作の魅力を、小生は、『オーソドックスなストーリーラインを堂々と描ききる』と表現しました。実は、これは簡単なことのようで簡単ではない。
 いろいろなクリエイタがいるので一括りにはできませんが、小生の観るところ、クリエイタには観客を驚かせたいという誘引力が働くことが多いようです。それがクリエイタの観客への支配欲ゆえなのか、創造力勝負に勝ちたいという競争欲ゆえなのか、あるいは単にサービス精神なのかはよくわかりませんが。この誘引力に多くのクリエイタは負けて、『アッという結末』へと観客を導きます。その結果、『アッ』というどころか、なんとも共感できないラストシーンに観客は拍子抜けしたり、疲れたり、敗北感を感じたりします。つまり、観て幸せになれないわけです。
 こういう意欲に駆られたクリエイタにしてみれば、ハリウッド映画や時代劇によく見られるありきたりの『オーソドックスなストーリーライン』は、つまらないもの、誰でもできるものなんでしょう。でも、実際はそうではない。むしろありきたりのものだからこそ、それをきちんと描く行為は難しいのだと思います。(だいたい、そうしてオーソドックスを嫌う人が、オーソドックスをちゃんと描く行為と向き合ったことってないんじゃないかと思うんですね。ええ、ここは悪意ある推定ですが)
 別に『作品を観る』という行為は、クリエイタ(作家、作り手)と観客(受け手)の闘いではないと思います。


■『お手盛り感』をどう受け止めるか
 『君の名は。』は名作です。そして、そのストーリーラインは実は意外と陳腐です。
 作品は、よくある『男女入れ替わりもの』として始まり、淡い恋を経て、『過去改変もの』へと展開します。前後のモードチェンジこそ本作の独自性でしょうが、前後それぞれよくあるパターンなので、それほど驚きはしません。御都合主義的展開も多く、お手盛り感も満載です。
 しかし、それだけではないのが本作のすごさでした。いや、それを乗り越える力に満ちています。
 お手盛り感と言いましたが、それは丁寧な伏線=回収の作業でもあります。二人が持っているスマホの機種、街の建物などの描写に、作品の核心である『3年』はきちんと描かれていた。一つ一つ作品世界のご開帳がされる度に、その丁寧な作業を観客は見出すわけです。これは作品世界に観客を巻き込むことに大きな効果を発揮しますが、本作ではそれがいかんなく発揮されます。こうなると『御都合主義』ではなく、作品の世界設計そのものが鑑賞対象となってくるわけです。ここら辺、小林靖子作品なんかにも通じるところがありますね。
 そしてストーリーライン。新海誠は、観客の期待を裏切らず、『過去改変』の成功へと物語を導きます。きちんと『ギリギリ感』を描きながら、きちんと登場人物たちにその大業を成就させきります。いや、それはいいのですが、その最後にある主人公の邂逅を描ききったことこそ、小生が本作を名作と断ずる所以です。

■過去改変ラブストーリーの一つとしての『君の名は。
 『過去改変もの』の王道は、『過去改変』により主人公たちは救われるものの、『過去』によってこそ主人公たちの邂逅があったがゆえに、全てが『なかったこと』になるという悲劇のカタルシスです。それは、主人公たちが恋愛関係にあれば、『別れ』の涙にもなります。いえ、それは観客の視点からであって、なかったことになった主人公たちにとっては出会いもしなかったのだから別れもなかったわけで、主人公たちはその悲劇を知らないからこそ、観客はなお泣けるのですが。
 しかし、本作の最後で、二人は『出会い』ます。きちんと。偶然ではなく。作品の必然として。それが本作の核心であり、作品世界の長い旅が成就したそこに、観客は幸せの涙を流すわけです。
 実は、白状すると、小生は観了した瞬間は、ここに御都合主義の違和感の欠片を感じていたのですが、今はそれは氷解しています。というのも、『過去改編』に成功したにも拘わらず、二人が物語で描かれた時間軸かずれなかったのはどうしてか、に得心がいったからです。
 それは『3年のずれ』にあります。
 通常の『過去改編もの』では、物語は『過去事件』の後に起きます。しかも、タイムパラドクスを回避するため、過去への関与は限定的で、未来者の行為がなくてもまぁなんとかなるようになっています。だからこそ、『過去改編』によって大きく違った可能性の方向へと時間は流れる、或いは無限のバリエーションの中で大きく違った方向のものが選択されるわけです。
 しかし、本作ではこれは『3年』の時をはさんだ二人の共同作業です。従って、『過去改編』に成功しても、その共同作業は存在しなくてはならない。言い換えると、無限のバリエーションの中で、その共同作業が存在するものしか選択され得ない。『電王』的に言えば、これが特異点になったわけです。
 『3年』という時空を超えた共同作業、そして作業対象が『彗星衝突の回避』ではなく『町民全滅の回避』であったというのは、こうした『成就』のストーリーラインを描くための巧妙な選択だったと言えましょう。
 この設計に、小生は唸っています。

■『成就』の希求、或いはチープなファンタシー
 ただ、こう書くと激しいツッコミを受けそうだな。うん。
 というのも、通常の『過去改編もの』だって、冷静に考えると『なかったこと』になるはずは本当はないからです。そうそう、その通り。だから、意外と最後のオチは不自然になっている。それを『歴史の治癒力』とかなんとかいう言葉で納得させようとするわけです。
 そんな無理をしながら、それでも多くの『過去改編もの』が作品の時間軸そのものの消去でおわるとするというのは、そこに『悲劇』への引力が働いていることを意味しているのかもしれません。そして、本作では『悲劇』ではなく、『成就』の希求という引力が働いているということなのでしょう。
 『過去改変もの』としては、『時をかける少女』よりも、『JIN』に近いラインだと思います。
 しかも、新海誠は今回、その邂逅を描ききっている。
 いや、描かないという選択肢もあったはずです。暗示で終わるとか、邂逅の直前で映像を終わらせるとか。そういう『観客に解釈を預ける』やり方をとらず、最後まで邂逅を描ききり、そして最後の言葉を『あれ』で締める。見事です。これを『描ききる』といわずに何と言えばいいのでしょうか。


■『シン・ゴジラ』と無理矢理比べてみる
 同時期に公開された『シン・ゴジラ』と比較するコメントを小生もいくつか目にしました。曰く、秘密主義で観客を煽った『シン・ゴジラ』とメディアミックスで観客を動員できた本作、或いは製作委員会方式を採らず作家主義で成功した『シン・ゴジラ』と製作委員会方式で作家性を制御できて成功した本作、etc。それはそうなのだろうと思います。
 作品としては、SFラブストーリーである本作と、怪獣パニック映画である『シン・ゴジラ』を比べるのは余りにフェアじゃないと思います。そりゃ、バレーボールと体操の金メダルを比べるくらいフェアじゃない。
 でも、敢えて言えば、小生は『君の名は。』に軍配を上げます。
 『シン・ゴジラ』は、現実との連続性の打ち方に細かく拘った作品です。そういう意味では、『考証の楽しさ』に満ちています。細かい『嘘』は計算の範囲内で、ファンへのネタ提供、仕掛けです。それでいて『現実感』を醸し出すのが『シン・ゴジラ』のエンターテイメントとしての真骨頂です。いわば、ファンコミュニティの相互効果を最大化することをヒットのメカニズムとして採用しており、実に現代的(古くは『オタク(マニア)受け』とか言われた)な戦略です。
 ただ、その分、ストーリーラインは実につまらない。ええ、ゴジラ映画なんですからね、そこは仕方ない。それは庵野秀明のせいでも、樋口真嗣のせいでもないと思います。
 しかし、『君の名は。』はストーリーラインで魅せる。そこでの『現実感』は作品世界に閉じたもので、『現実』との連続性はたいして重視されてはいません。小生自身が『御都合主義』と言い表していますが、虚構そのものの設計鑑賞に呑み込まれない人には、陳腐で、辛くてたまらないかもしれませんね。ただ、小生は呑み込まれ得る人ですし、これが小生のテイストには合うのでしょう。
 まぁ、それにしても、よくもまぁこの対称的な2作品が同じ夏に世に出たものだと思いますよ。うん。


 そんなこんなで、いろいろ書きましたが、とにかく、本作は名作だと思います。
 多分、『カリオストロの城』に続き、幾度も見直す作品になるでしょう。