「Aでなくてはならない」の反対は「Aであってはならない」ではない。

 眠い目をこすってメール処理していた最中に、ふらりふらりと吸い寄せられたモバイル研のパブコメSIMロック解除に関するコメントを見ていたところ、SIMロックを解除するとこんな、こんな弊害がありますというコメントもチラホラ。
 あーまたこれかよ、とやや頭痛気味な気分で、やっぱ一度書いておくべきかなと思ったので、カキコ。


 何を言いたいのかというと、
 「Aでなくてはならない」の反対は
 「Aであってはならない」とか
 「(Aの対義の)Bでなくてはならない」ではなく、
 「Aであってもなくてもいい」、或いは
 「AでもBでもいい」ということ。


 SIMロックの反対は、SIMロック解除したケータイ売ってもいいですよ、ということであり、SIMロックした携帯を売ってはならない、ということではないと思う。というか、日本人が大好きな義務論*1に即して言うなら「市場にSIMロック携帯とSIMロック解除携帯の両方を提供しなければならない」という感じだろうか。
 またかよ、というのは、放送産業におけるハードソフト分離論でも同じ論理構造が見られたからだ。ハード(電波帯域及び送信設備)とソフト(番組制作及び放送内容制作)を分けるべきという議論で、今は地上波放送が同一事業者による両者一体を前提としていることに対する改革論である。僕は基本的に分離論者なのだが、それはハードがソフトを支配する力関係がコンテンツ産業全体としては拭いがたいという判断によるもので、それを緩和できるから分離の方がよいといっているのだ。しかし、逆に言えば、それが緩和できるなら分離しなくてもよい、といっている。或いは、ここが重要なのだが、全員が分離しなくても、問題が是正される程度に分離型の事業者がいればよい、ということでもある。
 「ハード、ソフト、一貫でなくてはならない」の反対は、
 「ハード、ソフトが分離していなくてはならない」ではなく、
 「市場にハード、ソフト、一貫事業者と分離事業者が平等な取扱で存在しなくてはならない」である。


 「義務」の反対は、「選択の自由」であって、「反対の義務」ではない。


 どんな判断にも理由はある。そして、弊害もある。多くの弊害は、あることが世の中にあることから生じるのではなく、それがそぐわない人にもそのことを強制されることから起きる。つまり、「画一性」は多くの不都合の源なのだ。「画一性」はしばしば供給セクターとしての社会的コストを最小化するために選択される。言い換えれば、「選択の自由」は「画一性」がもたらす問題を単なるコスト論に還元する機能がある。日本のような社会的蓄積が大きい先進国としては、ベストウェイとなりやすいものだと思う。
 既得権益の護持、プロテスタントの意趣返し、支配したいという欲望、反対の美学、いろいろあって、「Aである」いや「Bだ」という政治闘争を楽しんでいるのだと思うのだが、僕はこういうのは付き合っていると頭痛がしてくる類の人間でありまして、「じゃ、両方やればいいじゃん」と30秒後には言いたくなる。


 惑わされてはならない。我々が一番恐れなくてはならないのは、金銭で解決できる社会的コストではなく、何ものでも解決できない「時間」という資源の浪費なのだ。論争に拘泥することなく、前進することが大事なのではないだろうか。




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*1:理由はいろいろ考えるところがあるのだが、いずれにせよ、日本人は「しなければならない」と言われるのが大好きなようだ。多分、命令したい、支配したいという輩と、責任負いたくない、考えたくないという輩の、なんだかよくわからない不健全な結合がそこここに多くあるせいだと思うんだが。