ネット権のこと

 いろんな原稿がたまると、天秤の館はパニックになり、ブログの更新が止まる。本当は今もブログの更新をしている場合ではないのだが、ここ数日、ネット権のことで自民党で動きがあり、そこから池田信夫先生や南方先生のトラバをいただいたので、ちょっと触れておきたいと思って書き込むことにした。
 池田先生のブログで資料が送られてきたと書いてあったので、ひょっとしてと思い大学のリアルメールボックスを見てみたら、件の資料はやっぱり僕の所にも来ていた。ほとんどが細かい修正なので、それに対する僕の意見は変わらない。もう一度書くのもなんなので前のエントリーを見てもらうか、もう少しまとまったことを日経のネット時評に書いたので、そちらを見てほしい。

 だが、今回の資料で目を疑ったのは、ネット権については許諾権方式を堅持しながら、合理的な利用申し入れに対しては承諾義務をつけてもよい、というところだった。
 なんじゃそりゃ。もしそうするなら、「合理的な利用申し入れ」の水準は予め決めておかなければ意味無いよな。そうすると申し入れる側はその水準に張り付く(それ以上の支払いをしたい人はいないから)わな。だったら、許諾権といわずに、その水準による報酬請求権として規定した方がなんぼかましではないか。
 デジタル環境においては、許諾権方式はしばしば逆説的に海賊行為の温床になる。許諾権方式だから、その管理はメディア産業側の自助努力になる。そして、メディア産業の側のコストパフォーマンスが悪かったり、意識が低いと、ほっとけってことになって海賊版が横行する。そのツケはコンテンツ産業側に回ってくる。クリエイタ達にはいいとばっちりだ。
 だったらそもそも許諾権方式という構成を捨ててしまえばいいのだ。権利を世間に返上するからこそ、取締コストを世間に(国に?)もってもらうことだって、或いは僕が主張するように基金方式による集中課金・配分システムで収益化するとかいう議論もできるだろうに。ネット権が許諾権である論理的必然性も、経済的合理性も、僕には全く感じられない。

 あえていえば、そこにあるのは何らかのメディア産業の主観的満足なのだろう。だとすると、メディア産業が「許諾権」を持つことで、自分が主役のように感じているとすれば、それは大きな間違いだ。メディア産業の本分は、クリエイタの作ったコンテンツを如何にして効率よくマネタイズするかにある。そういう意味では、メディア産業はあくまで脇役である。それも、シャアや死神博士のように、主役さえ食っちゃうような脇役であるとしても。

 ネット権の議論はよいところも多いので、よく考え直した方がいい。と思うよ。