音楽か、音楽産業か(iSummit2008・裏バージョン)

 イベントの醍醐味は夜にあり、それはiSummitも同じだろう。シンポジウム参加者が夜集まって、ウダウダといろんな話を1時過ぎまでやってました*1
 その中で気になったことがある。
 僕は、ユーザにコンテンツの利用を、特に二次創作までを含めて原則開放しなければならない理由は、現実の環境の変化にあると思っている。現実で貫徹できないルールを作ったことの弊害は大きい。しかし、音楽はそうではないのかもしれない。
 ある音楽関係者はこう語った。ユーザにそんな開放はしない。現実で貫徹できるかどうかは自分たちで追跡、訴訟、その他のことをやってみないと分からないし、それで管理しきれないところはあきらめがつく。最初から開放なんてできない。特に二次創作での原則開放なんて論外だという。
 ビジネスとしては、デジタル環境をコンテンツのさらなる価値増進の場と考えることに彼は同意している。しかし、二次創作はダメだという。それならデジタル以前の制度にとどまるのだと。なぜなら、それは創作だからだ、と彼はいう。創作はそれでよいのだと。
 二つの視点が僕にはある。
 一つは、それは音楽だからかもしれない、ということだ。音楽産業は、別にCDや配信が無くても成立する。ライブがあるからだ。ライブは収益ツールとしてはかなり確実である。ただ、僕は全てのコンテンツの産業を見ている。音楽はそうでも、映像はそうはいかない。だから、もし音楽だけが産業から行為へと軸足を移すなら、それもしょうがないかもしれない。
 もう一つは、プライベートな創作ってそういうものかもしれない、ということだ。僕は産業、つまり供給と需要が分かれている世界の文章、音楽、映像、ゲームの生産と消費を見ているから、単純需要家にも一定のいじる余地を与えようと考えるが、その世界観は絶対ではない。もしプロシューマ*2の世界が実現するなら、そういう作り手の感覚を理解して、誰もが作り手の了解無く二次創作なんてしようと思わない世界が到来するのかもしれない。だったら、それはそれでいい。(でも、まぁそれに近いギョーカイ空間ではそうなっていない気がするのだけど、そこはもう少し整理してから喋ることにしよう)。
 デジタル化がもたらす環境は、結局、産業を単なる社会的行為に還元するのか、それとも産業をより高度化するのか。札幌の夜は、けっこう重い問いを僕の心に残している。



.

*1:本当はもっと遅くまでやっていたんだろうけど、僕は離脱しました。

*2:作り手と受け手が渾然一体となる世界