西欧法の限界と美しさ

なんでも、米国でデジタル権利章典を作ろうということが言われているんだそうだ。
へー。
西欧流の裁判システムってヤツには色々な慣習があって、すべてを「権利」から説明しなければならないというのはその一つである。権利があるから裁判に訴えられる。それを制限するには、反対側にも権利を置いて、権利vs権利の構図を作らなければならない。そういう視点で見れば、情報の発信者側には「著作権法」があるから、利用者にも利用者の権利を法として謳おうということなのだろう。
へー。
それで?って感じ。
19世紀。「人権」を高らかに謳う西欧の下層市民より、「人権」を正面から規定しないイスラーム世界*1の奴隷の方がより法的保護が厚かったという研究もある。それを「権利」と呼ぼうが呼ぶまいが、「公正」を求めるところに正義はある。
デジタル権利章典を謳おうが謳うまいが、情報利用者と情報発信者の間にバランスある関係を見出そうという司法の態度が全てを決する。それをどう作るかの方が問題だ。
デジタル権利章典で問題が解決するようには思えないのだが*2



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*1:イスラーム法では、主権者は神であり、「人権」も神の恩寵の一部にすぎず、独立した根拠をもつものではないということになる。

*2:いや、解決するかもしれない。もし裁判官が、衡量の片方が明文法になっていないというだけで無視するような、単なる論理計算機みたいなヤツだったとすれば。