これだけは見ろ〜「パコと魔法の絵本」

http://yoshino-no-papa.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_f77/yoshino_no_papa/34675339_73.jpg
死ぬほど忙しい時間の合間を縫って、どうしても見たかった「パコ〜」を見た。そして山ほどの仕事もさておき、そのことを書きたかった。「パコ〜」は、そんな映画だった。

当初、「パコ〜」について持っていたイメージは豪華なキャスト、やたらかわいい主人公の少女、そしてあまりにも特徴的な映像というものだった。だが、その中で見た後にも頭に残っていたのは、キャストの力量だけしかない。代わって頭を占めたのは、その脚本力、演出力だった。

「パコ〜」のシナリオは、まったく自然ではない。これでもかと言うぐらい分節していて、何度も折れ曲がり、その違和感は、ある種、不愉快ですらある。ところが、舞台がそもそもあまりにも不自然な空間に演出されていることで、この不自然さがやや緩和される。そしてそれ以上に、キャストの演技力がこれを圧倒的な力で押し流していく。
その結果、その奥底にある人間の天使性、人が人に何かをしてあげたいと真摯に思い、そしてそれによって人が強く美しく変わっていけることへの賛美がむしろ強く見えてくる。
ちょうど、いくつもの大岩で無秩序に見える急流を、これまたそこら中で渦やしぶきを上げながら川が曲がり曲がりしてこちらに押し寄せてくるのを見た時、とにかくその水の勢いだけが目に残るのに似ている。


こりゃすごい映画だ。


どちらかというと、天秤はオーソドックスなスタイルの作品を好む質である。それはかつて観客を手玉にとろうという様が見え見えの三流手品師のような日本映画に食傷気味になったからかもしれない。そんな「芸術性」なんてクソ食らえ。野太い、オーソドックスな作品の方がよほど誠実だ。そう思ってきた。
この夏の作品で言えば、まさに「〜ポニョ」がそれにあたる。あれだけのシンプルなストーリーを二時間近くまったく厭きさせずに見せてくれる力たるや、賛美に値する。DMCも同じだ。シンプルな起承転結、明確な主題、要所を占める女優の素晴らしい演技がわかっていて泣けてしまう快感をくれる。

「パコ〜」はその対局である。
一つ一つの映像表現は唐突で、不自然。全体の起承転結は複雑。いちいち起承転結が全部「逆接」で繋がるものだから、頭の中グチャグチャ。
それをシナリオと演出は巧妙に組み上げていく。
不自然極まりない描写は、不自然な筋立てを自然に見せる作戦のようだ。複雑な構造(なにせ劇中劇の「ガマ王子〜」が反復的に出てくるからデジャビュー的混乱をおこしやすい)は、回想劇構造の中で重複なくまとめあげられ、逆にそれが展開の超高密度詰め込みを可能にしている。
何?この技巧的な作りは。天秤が嫌いな古い日本映画そのものじゃないか。

ところが、これが実にうまくまとまる。それが役所広司始め、土屋アンナ上川隆也小池栄子妻夫木聡たちの力量だ。正直言って、アヤカ・ウィルソンには演技力はあまり感じなかった。ものすごい美少女「モデル」だな、というくらいだが、カワイイのだから、それだけでいいだろう(なんだそりゃ)。それよりも、脇の俳優人の力量だ。これは月並みなものではない。
そして、ここまで力強くまとまると、そもそもの「違和感」はむしろ「意外性」という魅力になって迫ってくる。
これはゲテモノだ。あまりにも力強く、美しいゲテモノ映画なのだ。


正直言って、絶句、である。・・・規格外だ。


今、天秤は、この作品に対する世間の評価がどうでるかを心から楽しみにしている。日本アカデミー賞始め、各種の映画賞はこれをどう扱うだろうか。そして、天秤はこの作品は映画祭向きだと思うのだが、もしどこぞの国際映画祭に出品したら、審査団はどう評価するだろうか。日本の市場の評価はどうだろうか。(なにせ「下妻物語」の中島哲也監督作品だから)フランスの観客はどう評価するだろうか。
だが、彼らがどう評価するのであれ、天秤の評価は決まっている。


「パコ〜」はこの夏、一番の映画だった。