久しぶりは無題だよ

 いま、経済産業省という組織で仕事をしています。そこでは、色々なビジョンや戦略が書かれています。

 経済産業省というところは、面白い人材も多くいますし、刺激的で、暖かい職場だと思います。けれども、一つ気になることがあります。それはどうして色々なビジョンや戦略が出てくるかということそのものです。
 一つ一つの整合性を強迫症的にとってもしょうがないとは思うのですが、ビジョンや戦略が一つのメカニズムを共有していることは、それが一つの組織である以上当然だと思います。それがあるのであれば、そんなに沢山の政策が出るのは少しおかしい。しかもすでに公開されているいくつかの戦略を見ると、そもそも「メカニズム」が見出しにくいものすらあります。

 なんでこんな話を書いているかなんですが、ここ数ヶ月、ものすごい危機感に襲われているからです。それは、AmazonKindleを目にしてから、論じ古された、なぜiPod/iPhoneが日本からでなかったかというテーマをもう一度考える中で起きてきました。
 結論ですが、幕末ブームだからではないけれど、どうも明日へ続く資源が昨日の人達に囲い込まれているようだ、と確信するようになりました。政府部門についてもそうでしょうが、問題は、民間もそうだということです。別の言い方をすると、商品の開発が巧い人と、要素技術を開発できる人と、工場を運営して低コストで商品を製造できる人の間でミスマッチが起きています。もちろん、今もっとも重視すべきは商品開発レイヤーなのですが、それが要素技術レイヤーや工場運営レイヤーの不当な干渉の下にあります。
 それは全く知財と会社制度のなかで私的財産制度に基づいて作られた構造であり、市場主義、自由主義、資本主義の観念からするとどうにも問題提起すらしづらい状態にあるようです。教科書的近代経済学のブーメラン効果が、経済政策、産業政策の現場に起きているような気がします。

 それをものすごくクリアに書いてくれたブログを、小生の大学の先輩からtwitしてもらいました、とてもよいので、下にリンクを張っておきます。是非ご一読下さい。

http://blog.goo.ne.jp/mit_sloan/e/0d19edef63fbc07781d82a30609745e0

 私はエンターテイメント産業の友を自認していますが、もう少し、他の産業のことにも汗をかかねばならないか、血を流さねばならないかと覚悟し始めています。資源の再配分を市場に於ける自律的財産移転以上の意味を超えて行うとすれば、それは一つの革命であり、少なくとも大きな責任を負った改革になります。
 それから逃げたくない。

 そう思ったパリです。



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