「チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド」読後

 ゲンロンが刊行した思想地図β vol.4-1 「チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド」を入手した。


 「ダークツーリズム・ガイド」とあるが、実は今回のプロジェクトに触れるまで私は「ダークツーリズム」という概念を知らなかった。確かに原爆ドームをはじめとする様々な観光施設を貫く見方として面白い。
 この本は、家族で読ませていただいた。今も、私の自室ではなく、居間におかれている。家人が読むほど、この本は一つのテーマに沿ったガイドブックとして、きちんとできている。「関東日帰り温泉ガイド」と、その意味では、同列に扱ってよいのだろう。装丁やデザインに奮闘しただろうゲンロン関係者の努力がうかがわれる。


 もちろん、本書の目的はそこではなく、観光地化していくチェルノブイリ原子力発電所ルポルタージュしながら、そこにフクシマを重ねあわせていこうという作業の第一段階ということだ。だから、そういう意味での本書の感想は、続く思想地図βvol.4-2を踏まえなければ書くべきではないのかもしれない。


 だから、この感想は途中段階のものであることは、ご了承願いたい。


 ラカンは、人は、現実の事象をそれ自体としては受け止められず、現実は解釈され、位置づけられた形でのみ、受け止めることができると言う。我々が現実と思っているのはこの解釈され、位置づけられたものに過ぎず、その向こうにある「現実の事象」に触れることはできないのだ、という。
 「チェルノブイリ原子力発電所事故」という事象もまた、そうなのだろう。
 あの事故の理由を問えば、事故の経緯から、その背景たる発電所運営の話、或いはそもそもの原子力による発電事業や国家体制に至るまで、どこまでも問いは深まる。しかし、その問いをどれほど繰り返しても、チェルノブイリで起きたことの理解にはつながらない。
 「チェルノブイリ原子力発電所事故」は、解釈しきれないもの、位置づけられ得ない「現実の事象」として、彼らにとっては手に余るものだろう。だが、それをしなくては前には進めない。
 そして、それを解釈し、位置づけるための方法は、いくつもの形があるだろう。その一つが、観光地化であったと私には読める。
 もちろん、「観光地化」が唯一の、或いは最良の方法ではなかったかもしれない。政治的運動に昇華しようとする者、むしろ忘れようとする者、様々いると思う。そういう意味では、今、ウクライナ国立チェルノブイリ博物館を運営している人たちも、現地の様々な人たちとの軋轢の中に居るのだろう。
 「フクシマ」も同じだ。チェルノブイリの方が少しだけ年月を経ているというだけで、その事象の大きさ、問いに駆られる衝動、その問いの深さ、そしてそれが乗り越えるためにあんまり役に立たないことなど、恐らくかなり同じだ。
 ゲンロンチームは、そこで一つの乗り越えるための一つのアイデア、自分たちなりに「福島第一原子力発電所事故」を解釈し、位置づけるための手法として、それを観光地として表現していくことを提案しているのだと思う。
 「フクシマ」に事故以前の暮らしは多分、帰ってこない。もちろん、それなりに帰還はできるだろうが、「立ち入り禁止」という場所は多分残るし、中には世代が変わらないと帰れない場所も出てくるかもしれない。つまり、傷跡は絶対に残る。
 その中で、その傷跡を、ポジティブに、つまり日々生活をしていくために前向きに結んでいかなくてはいけないものとして受け止めるために、確かに「観光地化」は一つの提案だと思う。
 確かに、この本が見せるチェルノブイリの「今」は私には希望を与えてくれている。描かれた人々は、前を向いている。このチェルノブイリを、おそらくは憎みつつ、できれば葬り去ろうと思いながら、しかし、それと共存して今の暮らしを紡いでいる。当たり前のことかもしれないが、笑顔すらあるのは、私にも救いだ。
 もちろん、現時点で、この提案に眉をひそめる人たちは少なくないだろう。まだ問い続けたい、あるいは忘れたい、ひょっとしたら悲劇と位置づけ自分たちが政治闘争するという形で未来に一歩を踏み出すための糧としたい。いろいろな考え方があるだろう。
 けれど、私は、この「観光地化」という提案は一考に値すると思う。
 確かに、その意味ではまだ「フクイチ」の解釈、位置づけの方法には答えを出す時期ではないのかもしれない。或いは、それは幾通りもあり得るもので、そもそも一つにまとめるものではないのかもしれない。
 そうであればこそ、「福島第一原子力発電所事故」の「観光地化」に眉をひそめる人ほど、今はこの本を罵倒するのではなく、一読後、しばし本棚にしまったまま、語れる時が来るのを待つべきだと思う。この本は、そういう重さの本であるように感じた。


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