輸入権問題に関するいくつかの後悔

 日頃は組織の中で仕事をしている自分が、実名を晒して物事を書くというのは、一面では武者修行でもあるが、なにより組織の陰に隠れてコソコソ仕事したくないという思いからのことだ。でも、まぁ、組織の一員としての自分と、一個人としての自分を峻別するため、仕事に直接関係する内容を書くことはちょっと控えてきた。この24日まで著作権法改正のためにパブリックコメントが行われていたが、その中で焦点となった音楽CDに関する輸入権問題について、私なりに書きたくなったので、今回だけは一歩踏み出して、自分の考えを書いてみることにした。

1.輸入権とは何なのか?
輸入権は、コンテンツ商品に関する継続的セーフガード(SG)*1ともいうべきものである*2著作権は私権なので、中国のような市場価格が極端に違う市場に対しては、逆輸入を恐れて事業者が正規のライセンスをしないという対策をとることがありうる。輸入権の議論の背後には、これを回避したいという意図が見える。
2.なぜ輸入権という構成になるのか?
目的は仮によいとして、それがなぜ「輸入権」なのか?実は、当初は特定国からの輸入防止措置という考え方もあったし、事実、筆者が当初想定していたのは、物価があまりに違う地区からの輸入を制限する貿易措置であった*3。しかし、WTO協定整合性を担保する観点から、すでに文化保護のために容認されている著作権法による輸入権規定という案を採用することになったのだと記憶している。私の知らないところでもいろいろ議論はあったかもしれないが、なぜ「輸入権」になったかといえば、これは偏に法技術的問題であり、けして思想上の問題ではない。
3.輸入権に対する後悔(その1)
輸入権は、私からみても過度な産業保護法制になったといわざるを得ない。IT@RIETIのコラムで池田信夫氏は今回の提案を強烈に批判しているが、思想上の違いがある*4ため私はその批判の全てに賛成するわけではないが、氏のビートルズの米国版、英国版CDが日本で並行輸入できなくなることに関する批判には私も同感である*5。私に言わせれば、輸入権はやりすぎの制度なのだ。
4.海賊版問題と自由貿易主義
元来、コンテンツの生産と消費の間には、著作権法によって辛うじて産業メカニズムが導入できているにすぎず*6、実はアジア各地やネット上で依然厳重な海賊版問題は、単なる現地当局の取締不足にとどまらず、現地の生産部門が適正な価格で消費者にその商品を提供できていないことに対する消費者の反乱という側面を持っていると考えられる*7。実際、(特に娯楽系の)コンテンツの価格というのはその市場の可処分所得に強く縛られているようで、本当に世界単一価格という条件下で価格政策を企業がとろうとすれば低所得市場において高所得市場の価格に配慮した価格設定をする結果、低価格市場での海賊版の発生を止めることができなくなる。モノ財ではともかく、コンテンツ財ではこういう事態が起きることを確認して、議論を進めよう*8
5.輸入権を巡る対立の別の見方
輸入権はやりすぎだから問題なのか、それともそもそも思想自体が間違っているのか?多くの批判は、輸入権を生産者対消費者の関係の上で生産者保護=消費者圧迫という観点か、国際的な自由貿易主義に反する措置であるという観点からなされている。これは思想そのものを問題にする立場である。しかし、コンテンツという情報財については、むしろ世界的に市場を分割して市場毎の価格調節を可能にした方が世界的に正常な市場状態創出を生みだすということを、もう少し重視してよいと私は思う*9。産業メカニズムによって、より消費者が望む音楽が生まれることこそ消費者利益だと思っているからだ*10輸入権は、その思想において全く間違っているのではなく、その目的に比べあまりにも強い措置だからこそ問題なのだと私は考える。
6.輸入権にあえて賛成する
そんなわけで、私はコンテンツに対する産業メカニズムを重視する立場から、あえて輸入権に賛成する。韓国における日本語CD解禁を迎えて対応は急務なのであり、実務上、現時点では輸入権固執せざるをえないという事情に配慮した「やむを得ずの賛成」である。しかし、「賛成派」としてあえていわねばならないと思うのは、賛成派はもう一度強く反省する必要があるということだ。それは、そもそもなぜこれほど多くの人々が輸入権に反対するかをもう一度考えることに他ならない。
7.輸入権の副作用を抑えるためにやらなければいけないこと
批判の原因はそもそも日本の音楽CDの価格が高い*11ということにある。再販制がどれほどその価格形成に寄与しているかは不可知だが、再販制が持っている消費者への不満醸成効果にはもっと注目すべきだ。価格とは生産者と消費者の闘争の結果であり、その妥当性は決定過程そのものによって正当化されるものだと思う*12。よって、再販制度との二重設定を実効段階において回避するための、たとえば一定のカテゴリーの商品には輸入権を行使しない取り決め*13や、業界が主体的に行う価格見直しなどの措置の実現にむけ、関係者はより真剣な協議を行わなくてはならないと思う。
8.市場機能の本来の活用を
輸入権は、その創設の瞬間から、消滅の時を見据えている制度である。音楽CDの有意な輸出先市場が育って市場価格が上昇し、当然行われるだろう業界の様々な努力によって日本の価格が下がっていって、近接すればそもそも輸入権は無意味になる。すでに述べたように私は再販制、特に再販価格指定権の濫用に反対している*14。それを前提にしてやや感情論で言えば、国内の市場機能制限を認めて、並行輸入品で国内価格を調整しようと言うのは江戸の敵を長崎でとるようなものだと思っていて、今ひとつ釈然としない。国内市場の価格調整メカニズムの問題はまず国内で解決すべきで、再販制の縮小・廃止こそがまず越えるべき峠*15のはずだ。輸入権の議論は、今回の議論に関わった(特に批判側で)関係者による次の再販制見直しに向かった準備の烽火にすべきではないか。
9.輸入権に対する後悔(その2)
しかし、それにしても輸入権問題がこれほど酷い混戦に陥った原因は、その過程があまりに唐突だったところにある。十分な説明もなく突然、審議会の席上「やりますがいいですか?」では、いわれた側が感情的に反発することも道理である。また、政策全体の体系的説明もないまま部分だけが突出して語られたきらいもある。だったらもっと前から議論するべきだった。いや、そもそも2001年の再販制見直しの時にきちんと整理すべきだった。いやいや…といったらどこまでいっても止まらない。仕事柄、日頃は「理想論ではなく現実論」と考えているが、そのムダを過度に省いた仕事の中で、結果として理念なき場当たり的手法が繰り返されてきたことの問題点もよくわかった。この点は、どれだけ批判されても仕方がないと思っている。

 ここでは、私はコンテンツについて産業メカニズムを重視する立場に立って議論を進めてきた。もちろん、これとは違った立場があって、それぞれ批判はあるだろう。思想の違いゆえの議論は続けるべきで、非難とは違う批判は歓迎する。
 また、実際にレコード産業界の問題は多く(他のコンテンツ産業分野に比べれば小さい方だが)、例えば今回の輸入権批判の遠因となっている生産事業者(クリエイタ)と流通事業者(レコード会社)の業界内での利益分配のあり方*16などもたしかに問題にされてよいだろう。輸入権への批判をみると、思想の違いにも関わらず、私が考える問題点と現象面では重なる点が多いことに驚かされる。ただ、解決法については意見が異なるようだ。私は経済産業省の政策パッケージ*17の中でそうした問題の是正するいくつかの方向性を打ち出してきたと思っており、問題が多い輸入権はその中の歪んだ一部品にすぎない。だから、輸入権に対する批判はそうした全体像の中でしてもらうことを期待したい。
 さて、訳あって、私は一度経済産業省を離れて民間での活動を始めることにした。よって、本日よりは経済産業省に対しては「要望」、「要求」しかできないのがもどかしいが、この10年で話に役人臭さがついたのを私は後悔しており、ちょうどいい転機かもと思っている。私は、特定者の利益だけを強調するワンサイドな議論ではなく、全体の調和を考えた議論を心がけることだけは、自分なりの理想として続けていきたい。ちょっとづつ役人臭さをそぎ落としながら、一民間人として自分の言葉を磨いていければと思っている。
 長文、ご精読ありがとうございました!


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*1:本来、SGは輸入量が異常に増えたという状況下で許される特例措置であるから、「継続的」というのはどうにもおかしいのだが。

*2:SG措置は本来自由貿易主義思想に反しそうだが、国家というアイデンティティが強く残存する現状においてSGの余地がなければ市場統合そのものに世界的合意ができなかったろうということに思いをいたせば、存在自体は合理的だと思う。ただ、その濫用は戒められるべきだが。

*3:SGよりもやや強烈だが、市場価格差が一定以内の市場との関係では自由貿易を積極的に認める点で、輸入権よりかなりマイルドである。

*4:この点については別の場で筆者としてとても勉強になるやりとりが行われた

*5:余談だが、私は欧米のCDをほとんど聞かないのでビートルズといわれてもピンとこない。王菲の台湾版が日本では買えなくなるぞといわれればウムムと思うが、そもそも日本人はお金持ちだから千円高いくらいなんでもないし、安いのが欲しければ台湾にも香港にもいけるのだし…と思うので、結局それほど強い憤りにはならない。

*6:コンテンツは、元来、複製も、パクリもやりたい放題の情報財であって、通常であればその生産と消費の間には産業的関係には成り立ち得ない。著作権法はまさに複製・利用と制作を関連づけることでそれを無理矢理生み出している制度であり、かつその確保まではできないという中途半端な制度である。だから口が悪い人は、「著作権はお布施だ(払わなくてもいいけど、払ってもいい)」なんて言う。いずれにしても、著作権法さえなければ誰でも誰かの知的生産を正当に活用できるわけで、消費者にしてみれば悪魔のような制度である。ただし、同時に、パトロンがいなければ、誰も知的生産によって生計を立てたり金持ちになったりすることもできなくなるので、誰も消費者を喜ばせるために作品を作ろうなんて思わなくなるかもしれないが。税金を払わず賢帝を期待するより、税金を払っても投票権を持った方がよいと思うのは、おいら、民主主義イデオロギーに染まりすぎ?

*7:マレーシア政府がコンピュータソフトの価格統制に入ろうとしたのはこの思想による。

*8:ポケットの中でビスケットが2つ、4つ…になるのは物理学の神様が止めているので普通のことではないが、中学校の教室で音楽CDが2つ、4つ…になるのは著作権の神様が無力なせいで(良いか悪いかは別にして)とても普通に起きるのだ。

*9:高所得市場の消費者の権利を主張して、低所得市場において正規市場形成を遅らせるという戦略であれば、それは極めて巧妙な国際経済戦略だと思う。実際、女子十二楽坊も、あまりにも中国で海賊版が氾濫するので、やっぱりCD出すなら日本だと思ったという話も聞くし。

*10:より正確には、この消費者利益のためには産業メカニズムの活用の効果を否定できない、ということだ。ひょっとしたら、産業メカニズムなどなくても同じ効果が生まれるかもしれないという可能性を私は否定しない。ただ、その可能性に賭けるほどの先見性と勇気が私にはない。

*11:レコード協会など関係者は口をそろえて「それほど高くない」という。でも、私はやっぱり高いと思う。それは主観の問題だし、感性の問題なので、説得されようもない。

*12:ここでいう決定過程によって価格が正当化されるというのは、政治学憲法学でいう"due process"の考え方に近い。市場価格と政治決定は妥当な線というのが予めないものを決めるという一点では非常に似ている。

*13:これが独禁法上のカルテル行為に当たるという意見をどこかで聞いたことがあるだけれど、消費者余剰を増加するための行為も独禁法違反に当たるのでしょうか?

*14:再販制は流通コスト圧縮圧力低下、小売店の目利き能力の低下、過剰生産の促進などにより、発行部門(流通部門のうち、最も川上にある、コンテンツを媒体への固定その他の方法で流通可能にする産業。音楽の場合はレコード会社)を圧迫し、生産部門も圧迫するという事態に陥りやすい。出版について「出版ルネサンス」(2003.長崎出版)参照

*15:すでに「再販制が…不可知だ」と述べたが、実は再販制が廃止されたら価格が下がるというのは現時点ではまだ確認されていない仮説にすぎないことには注意が必要だ。よって、それを乗り越えてもまだ価格が高いという事態は想定しておかなくてはならない。その意味で、再販制の廃止は「第一の峠」なのだ。

*16:輸入権がレコード会社保護だと批判される遠因には、それがクリエイタに還元されていないだろうという考えが背景にある。現実には印税は価格のウン%という形で支払われるのでクリエイタに還元されてはいるのだが、そのウン%が高いか安いか(安ければ、「(十分には)還元されていない」ということになる)は、これまた議論があるところだ。

*17:独自資金調達と独自流通をやりやすくすることで、生産と流通の関係を是正することが思想的な柱。音楽でいえば、クリエイタがお金を借りやすくなり、レコード会社が増えたりして、クリエイタがレコード会社を選べるようになることが流通多様化の一つのイメージ。JASRACの大手レコード会社と小規模レコード会社の商品に対する取扱方法が違うなど制度的・準制度的問題がいくつかあり、再販制が生産・流通vs消費の関係におけるdue process問題であるように、これらは生産vs流通の関係におけるdue process問題として重要である。経済産業省はこれに対して平等取扱を非公式にJASRACにも要求しているし、代替手段も模索している。