超越論の限界〜他人の論評に憤る必要はない

 朝日新聞に掲載されていた村上隆のコメントを見ていて、「アニメがビジネスとして成功するから支援するというのには憤りを覚える」(記憶に頼って書いてます。不正確だったらすいません!)という言葉に目がとまった。この言葉は、役人をやっていた時の自分の最大の反省の一つだったからだ。

 ある事象を解釈しようとするとき、観察者の視点が常に問題になる。例えば、黙々と絵を描き続ける男を、精神分析するのは他者≒超越者の視点だし、その男の絵を描かずにはいられない自らの独り言を代弁するのは主体の視点だ。しかし、さらにややこしいのは、観察者の視点と意味の視点源とはまた違うということだ。例で言う「主体の視点」とは、その男以外の誰が語ってもその男にとっての意味は歪んでしまう。

 超越論の審級についてはいろいろ言いたいことがあるが、それはさておき、大事なことは、どんな超越論的な言葉も、主体には大して意味はない。主体がそれを意味あるものとして受け取らなくてはならないなんていうことはない。そんな考えで他者の言葉を受け取っても誤謬を招くだけだ。
 だから、評論家や学者や役人には勝手にやらせておけばいい。彼らとは対話はできない。ただし共存はできる。物理的世界*1彼らと私たち主体は共有しているのだから。

 私の反省とは、好きだったアニメやマンガやアイドルの居場所を拡大しようと思い、それらの「作用」*2を語っていた*3ところ、GNCなどという言葉にまた乗せられた政治家や役人が本気でそれを祭り上げてしまったところにある。もちろん、尊敬する山本正之に「おもちゃが売れてうれしいか?アイドルになれて楽しいか?…アニメが好きだ、ああ大好きだぁ〜♪」と諭されるまでもなく、私としてはGNCなんて本意ではない*4
 ただ、彼らの「超越論的言葉」は、主体として踊る人には何の効力もないんだということは、踊る人達はよくわかっておいていい。だから、村上隆は、いちクリエイタとして、政府を嫌う必要すらない。反感すら覚えなくてよい。村上隆は、ただそんな人達を、政府を、利用できるかどうかだけ自分として考えればいいことだろう。
 それは、立場が変われば、私自身が採るべき態度なのだが。

*1:私は、存在を超越論的存在−主観的存在−意味論的存在の三重写しとしてとらえている。ラカン現実界の審級は超越論的存在の次元であり、フッサール現象学的存在は主観的存在を指していると思う。その隙間、超越論的存在と主観的存在の間に知覚が、主観的認識と超越論的存在の間に象徴化の作用があると考えている。私は超越論的存在=物理的世界は語り得ないものだと思っているが、それを共有していると思わないと私の全ての行為はあまりにも相対化してしまい幻想とも言い得るものになるがゆえに、そう、それが嫌だからこそ、物理的世界が存在しそれを他者と共有していると措定するのである。

*2:いわゆる波及効果論。経済産業省コンテンツ産業政策ではこれが本道となっているが、それは経済産業省だからだということはわかっておいてよい。

*3:私以外にも、結構多くの人がこういう確信犯的信条で「アニメいいっすよね〜」とか「音楽いいっすよね〜」と言っている。ありがちなのだが、この言葉が出ないとコンテンツ担当部局では浮いてしまうが、これしか言えないと組織との関係で浮いてしまう(笑)。

*4:国の文化力を上げることなどどうでもいい。それは結果としてはあってかまわないが、目的になどならない。私は国ではない