国際会議の後産(悔しさの咆吼)

 16、7日と、ANEPR2003という国際シンポジウムにガラでもなく出てきました。「アジアの新しい秩序」というテーマの中で、政治(国家)・経済(企業)・文化(??)の三つ巴構造が見えてきたのは確かだ、とシンポ後の青木RIETI所長との雑談の中で話していました。三つ巴、というのは、単に文化というレイヤーがあることを指すのではなく、以前は経済と文化の間に必ず政治を噛ませて議論していたのに対し、近年は文化と経済の間に直接の相互影響を見いだすようになったことを指しています。

 そこを主張すべく出席していたはずなのに、はずなのに〜 (>_<)
 私は、え・い・ご・が・しゃ・べ・れ・な・い・♪

 おかげで言いたいことの30%も言えなかった。これが北京語だったら80%は言えただろうに。くそっ!といってもしょうがない。精進、精進ですよ。

 でも悔しいから、そのとき言いたかったのは↓のことなんだぁ、と叫んでみる。
**********************************

 国家は、貿易や文化や情報流通など、様々な場所に顔を出す。
 主権国家は法的枠組みにすぎない。至高の(sovereign)などといいながら、秩序実態の次元では、その主権は構造化され、動的プロセスとしては解体されている。事実、すでにエスニシティ多国籍企業が国家の意思決定に影響を与えている。

 POP-Cultureは、Virtualな共同体=we-feelingという形で、そこに薄くて広い共同体の一枚膜をかぶせる。それがどれほどVirtualかはわからないし、その膜が結果的に何枚被さるかはわからない。しかし、それは既存の個々人の結ばれをさらに拡張していくことは間違いない。

 国家を越えたというか、国家による調整過程に影響を与えるというかは純粋に概念的な問題、あるいはレトリックの次元の問題だ。国際的なアイドルやオタクコミュニティという、80年代半ばにはすでに予測されていた物事の具体化という流れの中で、POP-Cultureがそういう一枚のチャンネルレイヤーとして現実に浮かび上がってきていることだけは、指摘できる。

 国際的秩序を樹立しようという目的は、そもそも戦争の抑止にあったのではないか?だとすれば、この個々人の結ばれの拡張という事態は止めてはならない。
 存在と差異とは同義であるということに思い至れば、この個々人の結ばれは、一方では国際的秩序のためにはプラスの効果をもたらすとみなせるが、他方では国家の存立にとってはマイナスだと考えられる可能性があるといえる。国家は自己再生産を志向する共同体の一つであり、軍隊や警察といった強制力、教育やその他の情報操作など、あらゆる手段を使う。その中には当然こうした情報流通の規制も含まれる。多くの場合、それは国家の自己保存本能からくるということは隠蔽され、社会の安定のためや国家の発展のためといった正当性にくるまれて私たちの前に現れると私は予測する。
 だからこそ、国家がどのように自己正当化するかに関わらず、文化の相互影響の次元における国家主義、具体的には情報流通の規制は原則として禁止されるべきなのだ。その例外を認める際には、その理由の如何を問わず、実態的必要性についての第三者による透明性ある計測結果に基づく判断が必要である。