人は過剰に支配する
というのは、たしかフーコーの言葉だっただろうか?概説本の読みかじりだから当てにはならないかもしれないが、気になる。
音楽CDの輸入権に関していろいろなweb上の論説を見てたのが入り口で、知的財産に関するいくつかの議論を読ませて貰った。そこで、知的財産保護の強化は全くおかしいという議論がいくつかあったのに違和感を覚えた。
私はこう考える。
知的生産に対し、イ.成果の使用の報酬として金銭対価を要求する経済メカニズム、ロ.成果の使用の度になんらかの報酬を要求する産業メカニズム、ハ.成果の使用に対して何らの報酬も要求しない共有メカニズムという三つを想定する。イがロの特例であることは一見してわかると思う。
さて、ロよりもハは必ず優れているだろうか?
私の答えは、否である。しかし、ハはかならずロよりも優れているかといえば、これも私の答えは否なのだ。要は、そんなに簡単に決められないよ、ということだ。
報酬(金銭とは限らない)が欲しくて知的財産を作る人の生み出す力と、ただ誰かに使ってもらえれば満足で知的財産を作る人の生み出す力と、いったいどちらがより大きいのか?全ての知的財産を規定する法制を論じるなら、そこに明確な判断をしなくては、一つには決められない。
だから、どちらの居場所もあればいいと思う。選択的な制度が望ましい。どちらを採るかは、それを所有する人の判断次第だ。先ほどのイ〜ハに戻ると、制度的には実はハはロの特例でもある(報酬がφである)。だから制度論的にはロが一番中立で、イとハはその上でそのように振る舞えばいいということになる。
そうなのだ。報酬が欲しい人と何も要らない人はそれぞれ別れればいい。前者に対して後者が自分も報酬は要らないからおまえも報酬を放棄しろと言うのであれば暴論だし、後者に対して前者がおまえは報酬要らないらしいから俺が報酬は独り占めだというのも釈然としないだろう。両者は別れていればいいのだ。
どちらもありのその制度の上で繰り返される競争は、共有を主張するものだけのコミュニティvs報酬が欲しい人だけのコミュニティの戦いという側面を持っている。それでいい。両者は戦い続ければいいのだ。
それでもなお性急に、共有は正しく、所有権は悪であると単純に言い張るのは暴論だ。それは共有主義者の過剰な支配であり、かつて共産主義者が暴力革命で私有財産を全部接収しようとしたのに似ている。共産主義の正しさは、共産主義社会が資本主義社会とは独自に、資本主義社会を越えるだけの豊かさを現出してみせることでしか証明できなかったはずだ。
仮に、知的成果に独占使用権を設定して対価をとらせるのは低収入者が知的財産を利用できないのでけしからん、独占ではなく共有にせい、というのは、感情論としてはわかるが、根拠としては弱い。なぜなら、それは社会保障の問題として議論可能であって、知的財産の共有主義が唯一の解決法ではないからだ。それで知的財産が背後に持つ産業的メカニズムを全面から否定するのは乱暴にすぎる。
WinMXもいい、P2P型ファイル共有マンセー!でも、それに賛同しない人、音楽レコード会社やACCSやJASRACをけしからんというのはやめてね。賛同者だけで集まって圧倒しちゃればいいんだしね。
P.S.この文章は、出展を明記さえすれば、どう引用して頂いても結構です。