「CASSHERN」は見た方がよい。

 先週、紀里谷監督のお誘いでCASSHERNのプレミアに参加した。

 結論から言う。「CASSHERN」は見た方がよい。
 ある作品について書く時、良い、悪いというコメントを書くのは常に悩ましい。冒頭から脱線するのだが、イラク人質事件に関する「日本社会の反応」なるものへの欧米からの評価がここ数日メディアで目につくが、そこで見たC.パウエル米国国務長官が「彼らはよいことをしたのだから…」といっているのを見て、僕は、責任ある立場の人がそんなに簡単に「よい」とか使うなよ、と思わずテレビにツッコミを入れた。誰しも、良い、悪いなんて言葉を断ずる資格は持っていない。好きか嫌いか、或いは、せいぜい良い「と思う」か悪い「と思う」かが我々個々人に許されたせいぜいのところだ。
 とまぁ面倒くさいことをいってから本論に戻るのだが、「CASSHERN」は、コメントに悩む作品だ。
 欠点は確かにある。主役の演技は好きではなかった。いやさ、本当にこれで良かったか?とも思う。紀里谷さんが力点を置いていたはずのシナリオも、中盤はやや大丈夫か?と思う時もあった。僕の中のシニカルな部分が、そんな大風呂敷な理想を広げてもさぁ…と冷笑するのも感じた。重要なキャラのとても重要な台詞がうまく拾えず、背景音と混ざってしまっているのでは?という箇所もある。第一、自分としてはあまりにメルヘンチックな映像加工やクレイアニメ*1の挿入など、途中いくつかの映像がどうしてもなじめなかった。

 しかし、それでも僕はCASSHERNを推す。
 まず、純粋に映画の話。唐沢の演技には惚れた。いやぁ、良かった、というか、う〜ん、凄かった。要も、宮迫も良いと思う。映像面でも退廃した大亜細亜連邦の映像表現はまさにはまっていた。アジアのイメージの延長にある未来像としてはブレードランナー*2が有名だが、それだけに留まらず、日本人が持っている軍事政権や大陸国家のイメージを付加してあり、欧米由来のオリエンタリズムに陥らず自分流のアジア的軍事国家の未来像が描けていると思う。映像表現の面でも、主人公CASSHERNがロボット軍団と切り結ぶシーンは秀逸である。おそらく、ヒーローアニメを実写に引き写す一般的手法がここに誕生したと言っても過言ではないのではないか。
 そして、産業理論の人間としては、もう少し僭越にこの作品は良かったと言いたい。何より、紀里谷監督の映像制作へのチャレンジの方法を讃えたい。今回、彼は、ハリウッド流のとにかく資本を流し込んで最新鋭の機材で大規模に映像処理を行う方法を避け、少数のスタッフと汎用PC*3で頑張る方法をとった*4。成否は諸氏に委ねたいが、私は思った以上の成果を上げていたと思う。僕は、チャレンジで重要なことは、質的チャレンジだと思っている*5。そう思う僕としては、彼はきちんとチャレンジをして、勝ったと思うのだ。天晴れ、である。
 それだけでも、CASSHERNは見る価値があると思う。見たものだけが、ある挑戦が道を開く瞬間に立ち会えると思う。映画や映像というものを愛すると思うのであれば、是非その瞬間に立ち会ってもらいたい。
 実は、それ以外にも書きたいことはたくさんある。けど、ネタバレになるから書かない(笑)。きちんと原作へのオマージュになっていること、そして、後日紀里谷さんに、ある不幸なロボットアニメの名前を挙げて、「あれが頭にあったんじゃない?」とメールを書いたことだけを記しておきたい。同い年だけに、ムフフフフとくるものはやはりある。
 ああいう作品を見ると、僕も、僕なりのやり方でもっと挑戦しなければと思う。


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*1:参加されていた伊藤さんには申し訳ないのだけど

*2:説明を要しないと思われる、1982年、米国、リドリー・スコット監督、ハリソン・フォード主演の名作。オッサンSFファンの間では、強力ワカモトと「ふたつで十分」という名台詞で記憶されている。

*3:まぁPCとしては高性能なものだろうが、inferno等の専用機材に比べれば笑っちゃうくらい安いものである

*4:その考え方は、ちょうど篠田正弘監督の「スパイ・ゾルゲ」と正反対のやり方だと思う。

*5:ここで「質的な挑戦」といっているのは、平たく言えば「やり方を変える工夫」ということだ。これは「量的な挑戦」、つまり「汗の数が違う」ことと対比してある。単に投入する資金量を多くした「大作」なら、量的挑戦である。ただし、その中に資金調達の方法を工夫していたりすればその限りにおいて質的挑戦である。こんな風に、質的挑戦と量的挑戦の違いは視点の問題でもあり、外見から簡単に区別することはできない。とまぁこんだけ留保を置いて、やっぱ量的挑戦って芸がないなぁと思う。