自己責任論

 イラクから帰還した「捕虜」の人達から、また数人、イラク入りをする人が現れた。これは当初から予想されていたことで、驚きではない。しかし、それがよいことか、悪いことかを、その判断の前提に無頓着に語るのは、床屋政談でしかない。
 話をもう一度、自己責任論に戻そう。
 現状、彼らがイラクに行った場合、前回同様、トラブルにあっては国家がその保護に当たるということになる*1。しかし、「正しいことをしたと思っているが、迷惑をかけてすまない」という内容の発言を帰国後した者は、言行一致のためには、少なくとも、今後同種の事態に巻き込まれた場合に迷惑はかけないための措置を自らとらなくてはなるまい。それが何なのかは議論があろうが、少なくとも、自分の救出やその他の行為を国家は起こす必要がないという被保護権の放棄を予めしておくことはそれに含まれるだろうと思う。
 なお、「彼らのしていることはよいことなので、国家はそれを保護するべきだ」という議論について考えておきたい。それがイラクに行く彼ら自身の言であれば、呆れること我田引水の一言を持って足る*2。第三者の言であれば、日本という共同体全体の合意を少なくとも形式主義擬制でもよいからとらないことには、国家という「国民のエージェント」*3に対する命令にはならないから、ぜひそれをしてもらいたい。ただし、議論の中の一票を持っている私は、その一票を反対に投じる。
 自己責任論ということで、もう一つ、連想することを述べたい。
 自動車運転代行業に2種免許を義務づける規制が6月1日より施行された。この規制に対して云々するには私は情報が足りない。しかし、それに対してyahoo!ニュースでつけられていた「これで業界の地位向上にもなる」という言葉について、どうしても腑に落ちない。一般的に、我が国の産業組織は業界団体を生む構造になっており、規範も国家による法規制等の外的規制と、業界団体そのものの内的規制との二重構造になる。業界の地位向上にもなると述べたのはその業界自身であるが、ならば内的規制をしておくのが自己責任である*4。自己責任を果たすことによって消費者からの信頼を勝ち取っていくことの方が、よほど業界の地位向上になる。外的規制が入ることに対して、余計なお世話だと叫ぶくらいでちょうどよいのではないか?誇りがない業界の地位向上など片腹痛い。第一、これは一種の参入規制であって、業界団体自信の努力ではなく国家による規制としてこれがなされたこと、そしてそれを業界が歓迎することを考え合わせれば、また安全規制の名を借りた供給制限を業界と政府の合わせ技でするのかといぶかりたくなる。
 要は、自分が(1)誰の世話にもならないという範囲内で(2)最大限の他者への貢献をなす、ということだと考えている。両者は等しい重さを持った前提だと思う。(2)のために(1)を破ってはならないし、(1)のために(2)を放棄してはならない。これは結構冷たい個人主義だと思うが、「頼れるものはどこにある(と探すくせに)、頼られるのが嫌いな獣たち」*5である私たちが新しいルール≒モラールを生み出す起点はそこしかないのではないかと私は思う。


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*1:イラクに行くことを禁じたり、行った場合の法的保護の制限を明示した法規定はできていない。

*2:自分がすることのうちほとんどは少なくとも自分がすることを正当化できるような範囲のことだ。この議論は誰にでも語る権利があるトートロジーであり、耳を傾けるに足りない。

*3:少なくとも日本国憲法はこういう思想に立っている。それをあきらめるなら、そもそも憲法改正をした方がよい。

*4:業界団体の申し合わせで事足りる。もしアウトサイダーを阻止できないというなら、違反者を団体から放逐しつつ団体自体をブランド化していくことによって、同様の効果を果たせるはずである。消費者は、自らに関することに関しては、そうそう馬鹿ではない。

*5:中島みゆきは“友情”(1981)の中で、「自由に歩いていくのなら独りがいい、そのくせ今夜も人の戸口で眠る」の後にこの言葉を続ける(ただし、カッコは私の挿入である)。与える以上に得ようとする。生む以上に使おうとする。この矛盾は人間の本性として解けることはあるまい。しかし、その修正を予め念頭においた制度設計は可能ではないかと私は思う。