映画よ、物語消費の再来に甘えてはいられないぞ

デジタルクリエイタ(でいいのでしょうか?)高城さんと久しぶりにお会いして、コンテンツの消費傾向の話になった。氏の意見は、音楽業界がアルバムから単曲に移行せざるを得ないと同様、映像の世界もショートに行き着くというものだった。
僕はですねー。半ば賛同、半ば反対。反対というのは、物語消費はむしろ復調していると思うから*1。また、物語消費のカタルシスは不滅だし。賛成というのは、確かに物語消費のために長時間を割くリスクは上がっていると思うから。
しかし、映画界は、「映画の復調」という全体傾向に酔っているようだ。でもねー、それでいいのか?
リスク向上を感じている観客に物語を消費させるのは簡単な仕事ではない。そのためには、物語は、作品を越えて、観客の日常生活にまで入り込んでいなければならない。それは確かに「宣伝」の延長上にあるが、それを「宣伝戦略」という次元で考えているのでは、その先はおぼつかないのではないか。テレビなどのたれ流しメディアでの露出だけが唯一の手法というのはお粗末きわまりない。それでいて、物語としての基本は押さえなくてはならない。見るものが「●○×の太ももだけ」みたいな情けない作品では、いくら宣伝で成功してもねー*2
「映画の復調」は、日本映画界を何も免罪してくれはしない。むしろ、これまで日本の映画が嘯いて背を向けてきたハリウッド作品やテレビの道の方が妥当なのだろうという感を強くさせるだけだ。それどころか、映画を変質させ、壊す力を示しているのかもしれない。「物語」の在処は、何も「映画」だけには限らない。
「物語」の背後には、観客を支配しようという作り手の欲求がある。それを満たすためには、それなりの力業がいる。その敷居値が上がっていることは自覚しておこうや。映画界は、今こそ自己反省が求められている。

 といいつつ、いつも悩むんですが、反省したがらない人に気持ちよく反省してもらうにはどうすればいいんですかねー(泣笑)



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*1:ここはすれ違い答弁かもしれない。高城さんは記号消費を主張しているわけではないので。

*2:そういうものに限って宣伝も成功とは言えないのだが