祭りとは何なんだろう〜或いは醜いクリエイティブへの反発
映画祭をやっていると、いつも「映画祭は誰のためのもの?」という問いかけに突き当たる。それが参加者のためのもの、ということは誰も反対しない。しかし、不思議なことに、映画祭を作る時、参加者や観客への十分なヒアリングや巻き込みが行われることは少ない*1。これはどうしたわけだろう?
コンテンツ産業を分析すると、そこには厳然として送り手と受け手、クリエイティブと観客という区分が存在する。クリエイティブは自ら創造し、それを観客の審判に付す。観客は創造の内側にいないが故に、このときの喜びは常に「予想もしなかった喜び*2」であり、ラカンの言う剰余悦楽を味わう。資本主義が分配しきれない剰余価値によって安定化しているように、剰余悦楽もまた自由な表現によるコミュニケーションを支える基盤なので、この試みは聖なる行い*3のようにも見える。
しかし、剰余悦楽なんてあらゆる自由表現コミュニケーションの中にある。クリエイティブが特殊なことをしているなんてウソだ*4。
それでもクリエイティブは観客への賭を続ける。私はその背後に観客を支配しようという企てを見る。
それが成功する人はまだ許されよう。力あるものの支配は、好き嫌いは別にして、一定の効率性をもたらす。しかし、能力なき者の単なる<<支配したい欲求>>は、見ていて実に醜悪である。クリエイティブとしての能力が十分でない者、例えば、単なる流通業者や単なる労働力提供者が、たまたまクリエィティブの圏内で作業しているからといってクリエイティブ気取りになるのはいただけない。ただ、事実問題としてコンテンツ産業に於ける「送り手」は拡大解釈され、書店主や映画館主ですらその一部だという気になっている傾向がある*5。なぜか?それはクリエイティブが「観客を支配することを許された特権階級」だから、誰もがクリエイティブになりたくて、自称しようとするからだと私は考えている。
しかし、東京国際映画祭は多額の資金を使ったイベントとして現前する。自己慰撫的自己評価や、インナーシンキングは許されない。私はスポンサー側から来た人間*6だけに、そのことにはことさら敏感になる。
そう思うと、観客に問いかけをしない態度はやはり問題ではないか。よく練られてもいない企画を、さもすばらしそうに提案する自己満足、我田引水、唯我独尊な態度は、映画祭のあり方として、なおさら大きく問題にされるべきではないか。たとえ映画祭事務局に居ても、私は映画祭を作るクリエイタではなく、観客に東京国際映画祭を作ってもらう環境整備サポータであるにすぎないと思う。主役は観客なのではないだろうか?私たちは映画祭というコンテンツのクリエイタになったように思っていい気になっているだけではないだろうか?
実は映画祭も所詮は創作物であり、個人として賭をしていることは変わらない。だから、ただ私は自分の作りたいものを作るのではなく客観的な成功のために真剣に何をすべきかを模索するのだという態度によってしか「なんちゃってクリエイタ」から区別されないと言うことになるだろう。それゆえ、「映画祭とは誰のもの?」、「映画祭の成功とは何?」という最初の答えに帰るのだ。そしてこれは次の問題に変化する。本当に観客が求めている「祭りの機能」とは何なのだろうか?う〜ん、これは問題だ。
問題だーと言うが、本当にこれには答えが見つかっていない。こんな難題にぽーんと答えを出せるようなら、私は神か、悪魔か、それとも「解けた気にすぐなるあほなクリエイティブ」*7かのいずれかだ。ただ、自分なりにひょっとしたら…という解はある。私は、インターネットはその解を生む鍵だろうとおもっている。来年の映画祭を楽しみにしていてください。
…あ、その前に、せっかく頑張っているんだから、今年の東京国際映画祭にも来てね!
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*1:現在の東京国際映画祭は、ボランティアにその多くを負っているが、これは観客を巻き込んだ希有な例だ。ただし、彼らにどんな企画をやろうかと問いかけることはない。
*3:系全体を安定させるための正当な行為、ということ
*4:クリエイティブが「創造を生業にする人」であって、「生業にする」が反復継続性を意味するとすれば、自由表現コミュニケーション空間では誰もが自分で自分の表現を「創造している」ので、誰もがクリエイティブだといえる
*5:別稿でも書いたが、コンテンツ産業には、他の産業と同様、生産と消費という区分は存在し、当然その両者を橋渡しする流通も存在する。しかし、靴屋は靴職人よろしく靴作りをうんちくしたり、客が履く靴を指定したりは普通しないが、映画館主が映画とはね…なんて語ったりするように、なぜかコンテンツ産業では流通事業者までクリエィティブのように振る舞う。
*7:この場合だけ、答えが正解ではない。