所有と利用、権利と義務

 90年代の、なんちゃって金融資本主義ゲームが一定の成果と共に曲がり角にきているのではないか?
 なんて、いきなりでもうしわけない。先日ラジオのコメンテーター用の原稿を書いていた*1時に、所有と経営の分離ということに触れた*2。いうまでもなく、所有と経営の分離は、資本主義経済システムの根幹をなす設計思想である。コンテンツの生産と消費という現象、或いはその連環を産業として見るという再評価、再設計作業がここ数年静かに進行しているが、そこでは所有と経営の分離という思想の評価と活用は十分でないと私は感じている。
 コンテンツ産業は、そのメカニズムが非金銭的インセンティブに大きくドライブされているがゆえに、現象面ではパトロネージなどの特徴的な形態が他の産業よりも効率的になる。そう私は説明してきた*3。しかし、それが、コンテンツ産業所有と経営の分離という原則の例外分野であるということの論拠とされるならば、それは私の意に背いている。自然権主義をとる現行著作権法*4の考えと必ずしも一致するものではないが、私は社会的な利用のあり方を考える際、いわゆる著作者人格権ですら制限の対象となりうると考える。
 所有と経営の分離という思想は、「過程による正統性」*5を体現した一連の法的手続きとして、商法の中に存在する。物的会社主義に立つと、これが会社という対象に対する所有権の制限である。しかし、所有という制度の論理的正当性を考えることすらない人々、例えば企業のオーナー社長などには、コンプライアンスコンプライアンスと商法上の手続遵守が叫ばれる現在ですら、その手続が体現しているところは所有そのものの制限であると認識されることはそう多くないのではないか?
 翻って、著作権を始めとしたコンテンツの生産と消費の産業化努力について考えてみる。03年から04年にかけては、貸与権やCD輸入権の話など、権利強化の動きが強かった。さて、「経営」が「組織化された社会資源の効果発揮のされ方」だと考えると、経営を社会資源の利用法と読み替えることは、ぼちぼち妥当だと思う。所有と経営が分離されるように、所有と利用も分離されうる。この権利強化の動きの中で、権利に対する制御、或いはこの権利の制限は如何にあるべきか、という議論は十分になされていない。
 その原因は、資本主義社会の工夫の根幹が所有という状態の効果に制限を加えることにあるということに気づかず、或いは目をつぶり、金融資本主義と規制緩和、民営化の意味を十分に理解しない「なんちゃって市場至上主義思想」が横行した結果だと私は考えている。しかし、「なんちゃって」ではあっても、金融事情は大幅に緩和されたし、1円企業が常態化されるなど商業法制もゆっくりと大転換を始めた。所有権にあぐらをかく人々に対する反抗の条件は整いつつある。
 競争政策をコンテンツ産業にきちんと導入すべきだと私はこれまで述べてきたが、その証の一つとして、知的財産権と競争政策の間の整合調整のあり方を、知的財産制度はおよそ競争政策の例外だなどと杓子定規な思考回避をしないできちんと考える段科に入るべきだ。それはおそらく、新たな権利保護と、新たな権利制限という形で具体化されるだろう。


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*1:月に一度、電話で北陸放送MROラジオで喋ってるのであります。滑舌が悪いので、一生懸命はっきり口を開けながら(苦)

*2:文脈はプロ野球問題のオーナー側を批判したものである

*3:経済産業省の中でコンテンツ産業に対する政策を提言する身としては、むしろ一般産業政策との違いを語ろうとするので、そこに目がいってしまう

*4:我が国の著作権法も、我が国の他の法律同様明治期に欧米法を翻訳輸入することから始まっているが、白田「コピーライトの史的展開」によれば、その源流となるイギリス著作権法自然権主義をとっていたことが当時の極めて戦術的事情から来たことであり、十分論理的に検討された結論ではないようである

*5:"due process of law"のことを、私はこう表現する。「デュープロセスオブロー」なんて翻訳努力を放棄した西欧かぶれないい方は好きじゃないし、DPLなんて略しようものなら、自民党だかデジタルプロジェクターだかなんだかまったくわからないので実用上も問題である。私は、日本語訳を勧める