オタク「迫害」を考える

 YOMIURI Weekly*1が嚆矢かもしれないが、奈良小学生殺害事件以来、性犯罪への警戒とならべて、ロリコン系ポルノマンガ、アニメ、及びそれにつらなるゲームやフィギュアといった一連のものが批判の対象になっている。海外では日本のオタク系マンガ、アニメはポルノだとか、アキバに集う人は屈折してるとか、絵に描かれた女の子には人権がないから取り締まれない*2のはおかしいとか、理由や反応の仕方は様々だが、まぁ要はそうしたものとその愛好者への嫌悪*3、あるいは恐怖だと思う*4
 この嫌悪、恐怖そのものは仕方のないことだと思う。
 思えば、あの事件は<ロリコン系ポルノの世界>と<子供を守りたいと思う現実の世界>との交差によって生まれた悪夢である。
 だが、ロリコン系ポルノの世界に集う人間は「彼」だけではない。その集合の一つの元にすぎない「彼」が犯した犯罪のために集合そのものを非難することには、私はそれでもやはり躊躇する。これは、いつの時代にも見える少数派への「迫害」*5の一類型に見えるからだ*6し、第一、メディアのコモデティ化が進んだ今となってはその弾圧もできないだろう。
 躊躇はするが、それが不可能な徒労だと分かってはいるが、しかし、この嫌悪、恐怖はごく自然な気持ちだろう。
 何事も、思うこと自体は罪ではない。誤解を恐れずにいうなら、行うことそのものも罪ではない。ただ、それに他者を巻き込んではならない。隔絶された空間の中では、どんな事実も許される。問題はその事実の内容ではなく、それが我々にとって害悪になるか、或いはなるかもしれないかどうかだ。サッカーの試合の結果を小声で話したなら、お客は上戸彩に首を絞められる理由は何もなかったように。<分節>されている限り許される行為は、<分節>が不完全になった瞬間に罰せられる。
 しかし、考える。妄想を共有すること自体を罪として問うていいのか。
 その人達がそうしたマンガを読む時、彼ら*7はある集団の一人である。ある世界に属しているといってもよい。同じ彼らは、学校では学生だし、仕事をしている時は社会人だし、家に帰って家族といる時は家庭人である。その時々も、ある学校だったり、ある会社、ある家庭に属している一人の人間達である。私たちは、時々に<分節>している。
 しかし、その瞬間を切り分けられるかどうか。そこが重要だ。世界の<分節>は、私たち自身の<分節>に対応している。
 切り分けることができないなら、麻薬規制のように、妄想を共有すること自体を違法化しなければならない*8。もしその人が妄想の共有を大事にしたいなら、一人一人がそのことに気を付けなければならない。
 この<不完全な分節>への対応の決定の鍵を握っているのは、非難する人々の方なのか、それとも今は非難の対象とされている人々の方なのだろうか?


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*1:2005年2月13日号

*2:現在の児童ポルノ禁止法は、児童ポルノを倫理的に否定することではなく、撮影された児童の人権を守ることを目的としている

*3:確かに、ダグラス・マクレイのおかげでいきなり世の中がアキバマンセーになったことについては、反発も、受け入れがたい人がいることも分かるけどさ

*4:これは、いつか見た光景、たしか15年ほど前に見た景色にも見える。

*5:個人主義的立場に立てば、自らの犯罪行為が無いのに非難されることは、やはり「迫害」と言わねばなるまい。

*6:創作者は「少数派」に対して同情的である。それはおそらく人権がどうしたといったイデオロギー的な理由ではなく、創作者自身が他者のなしえない境地を追い求め、逸脱との境目にいることが多いからこうした「少数派」になりやすい、或いはその気持ちが理解できるからというだけなのではないだろうか。

*7:読みやすさを考えて、一応、ここでは男性を指すことば「彼」を使う。テーマが異なれば、「彼女」を使っただろうが。なお、米国的に「彼/彼女」と読み替えてもらってもよい

*8:仮に、である。ブランドものを買うために経済破綻や時に売春や詐欺などの犯罪行為も助長するとするなら、同じ文脈でブランドを紹介する女性誌も違法化されなければならないんだけどね