放送・通信融合は放送か?通信か?・・・ってさ(笑)

 本当は今週、T-naviのことを書こうと思っていたのだけど、どうしても一言書きたくなって横道に。ホリエもん騒動のことであります。といっても、ニッポン放送フジサンケイグループに残るか残らないか云々といったビジネスゲマインシャフトの話はどうでもよい*1のですが。
 個人的には、ホリエもんが見ている未来はどういう娯楽サービス、メディアサービスなのよ?というところにしか興味はない。
 といっても、現状で未来予測をする気はあまりない。放送と通信が融合するというのはどういうことだったのかを知るのは、あと10年くらい先の話になるだろうから。だいたい、夕焼けニャンニャン湾岸戦争報道の出現を皇太子(今上天皇)ご成婚の時に予想した人はまずいなかっただろう*2。ただ、放送と通信が融合したら何か面白いことが起きそうだという予感のみで人々は動いている。まぁ世の中そんなものだ。
 放送と通信の融合についてはいろいろな噴飯もののエピソードもある*3が、さしあたって重要なことは「放送」の意味とインフラの対応が付かなくなっているということだと思う。
 その意味で、放送は文化問題だという西正氏の主張*4には耳を傾けるべきものがある。それは、「放送」というものの特性はすでに技術的特徴にあるのではなく、信頼性等社会的に負っている責務そのものにあるということをきちっと謳っているからだ*5。ただ、西氏の言うとおり、放送の定義は優れてサービスとしての役割の問題である*6からこそ、通信インフラと放送事業の融合は不可能なのではなく、むしろ可能なのだ。インターネット空間の上で「放送」というサービスの在処を切り出してしまえばよいだけのことだ。サイバー空間は、その中に放送と呼びうる<分節した場>を作れるほどに柔軟である。事実、数年前に生まれた電気通信役務利用放送法はそれを想定しているし、その上で事業をしている人達*7もいる。
 ブロードバンド双方向インフラの時代はすでに来てしまった*8。そこでの体験は、放送のようだが放送にとどまらず、通信とも見えるが通信に見えない時もある。しかしTIVOやHDD録画機、そして日本のテレビドラマを無許諾再配信するサーバがアジア各国に立つなかで、IPネットワーク上でできる行為が放送なのか、通信なのかという論争に時間を費やすほど、僕たちには時間はないのではないかという想いはある。
 そうしてみると、放送業界が態度を硬化するという西氏のコラムの最後を締めくくる言葉は胸に響く。放送局は、報道や娯楽の番組作りというサービス業を目指して集まってきた人達が経営するインフラ企業というちょっとねじれた構造を持っている。だからこそ、僕の知る放送人達は、この融合を複雑な思いで見ている。むしろ、僕はそこに希望を感じている。むしろ、西氏がコラムを感情論で締めくくるのには、私は一読者として、或いはかつて日枝会長の後輩になろうとその門を叩いた者として、抵抗感がある。ホリエもんのやり方は不躾であろうが、そのメッセージには聞くべきところがあることは放送業界の人々はわかっているはずだ。私は、西氏とは逆に、これまでの放送多様化の動きを率先して走ってきた民放キー局*9が奮起してIPネットワーク上での「放送」に乗り出し、西氏のような論調を覆せるよう、期待している。甘ちゃんかもしれないけれど。


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*1:ただ、ホリエもん、ニッポン放送亀淵社長、CX日枝会長ともに思い出深い方々ですので、あぁいう構図の戦いを見ると胸が痛むのではあります。

*2:いや、もしいたら脱帽します。

*3:放送関係者が通信インフラを使った放送をすることが難しいといった理由(の一つ)が、「時報がほんの少し遅れるから」だったとか。う〜ん、僕のようにネット時計で生きている人もいるし、そこまで時報オタクだったら電波時計でも買えばいいってーの。

*4:2005/2/25産経新聞

*5:これは、少なくとも放送関係法体系上はその通りなのだ。

*6:「放送」という事業と電送インフラの組合せは全く必然的でない

*7:その中の一つであるJ-COM TV のHPhttp://www.jcom.co.jp/digitv/about/outline.htmlによれば、地上波デジタル放送の再送信さえできているという

*8:その意味で、現状をデジタルBSやナローバンドでの映像配信などの時代と比較するのは、ターボエンジンの時代に蒸気機関の時代の体験論を語るほどにナンセンスである。

*9:そのためにCSやBSデジタルとかで経営的には痛い目を見ているのは同情に値するが、蒸気機関の時代に自動車会社に投資したような、早すぎる実験に大きすぎる投資をした結果にすぎない。