<中産階級社会>にもう一度望みをかける

 のっけからなんだが、俺は<中産階級>出身だと思う。だからこそ<中産階級社会>に期待をかけて、80年は民主主義マンセーだった。だけど、こういう官僚仕事をしているとだんだんいろんな見方をするようになって、特に中国で本当に真面目にやってる有能な青年の上にあぐらかいてる日本人出向者*1とか見てて、白状すれば、ひょっとして<中産階級社会>ってもう駄目なんじゃないかって、真剣おもたよ。
 でもね、名無しDQNのサイト見てて思った。


 まだ、いける、かも?!


 そうだ。ただ真面目に物事と取っ組み合って殺しあいしか待っていない隘路にはまりこむより、自分すら笑って明日に生きるこのセンス。最近になって<階級分化>をあーでもない、こーでもないとダサい<知識人>が論じているけど、それってイマサラじゃね?<真の中産階級>は、そんな<階級分化>なんてもともとあるものをとりあえず見ないふりしてぷら〜り来ていただけのこと*2、それを直視するよりネタにして生きてきた。その中で培われた天下御免のこのセンス。
 サイコーだよ。
 この瞬間だけは、やっぱ日本の<中産階級>は中国の<中産階級>に比べて、分厚さ、成熟度が違うとおもたね。中国の先峰的中産人民は、ここしばらくの不文明的表現方式をもう一度見てみて、中国国民の中だけのせまい祭りになっていないかを考えた方がよいぞ。全球化する現代的社会で、文明的市民は、殴り合いより笑い合いを目指すのだ*3。先峰的中国人民よ、世界の先峰的中産市民は、マスメディアなんて越えて、君たちを見ているぞ。それが全球化だ。


 ネタを!ネタを!ネタを!*4


 銃弾の戦争よりも金銭の戦争を、金銭の戦争よりも喜びの戦争を。あざけりの銃弾攻撃に対する反撃には美少女の笑顔攻撃を*5。僕は、先峰的中国愛国人民が、どういうネタで反撃してくるか、期待している。評価は、それを目にした時の僕の笑いで決めたいと思う。




P.S. あ、昨日、慶応大学メディアコム講義第一回でした。その後で、学生から「こーゆーこと知りたいねんけどな」っていう希望が出てきましたので、講義設計を一部変更します。新しい設計書は、また週明けにでもアップします。


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*1:彼我の収入格差は、2000年当時、10倍程度あったと思う。それが自らの生産する価値格差だとはとうてい思えなかったが、だから悪いというのではなく、それが不自然な状態であることを自覚する人が少なかった。

*2:イデオロギーに対して、マルクスは「誰もがそれを知らない。しかし、それをやっている」と定義したが、ラカンは「誰もがそれを知っている。しかし、それをやっている」と定義した。僕には後者の方がよほど病理的で、でも正しく見える。<知識人>の皆さんは、マルクスよろしく、それを暴けばよいと思っているのだろうか?その指摘する行為そのものは無力であることは、「世の中は・・・他愛のない嘘をいつもついている/包帯のような嘘を見破ることで学者は世間を見たような気になる」という言葉で、70年代に中島みゆきは喝破しているのに。

*3:キャッチアッパーの悲哀とは、キャッチアッパーがキャッチアップしたころにはもう全体が進んでいるという、まるでアキレスと亀のパラドクスみたいなところにある。例えば、日本はペリーに大砲で強姦されて、それ悔しさに頑張って周辺諸国を軍事的に踏みにじったが、その時には世の中の方が経済モードに入ろうとしていたという、世にも悲しいことになっていて、自分たちは真面目にキャッチアップしていたのにそれ自体がダメーと言われたわけだ。僕は中国の若いやつが真面目に頑張っているのを知っているからさ、同じ罠にはまるなよ、といいたい。

*4:Dedicated to 「愛を!愛を!愛を!」, shout of 大石五郎 in JOLF, maybe, Cockey Pop.

*5:入江沙綾の写真集は児童ポルノ法違反ではないか・・・という議論がどこかにあったような気がする。児ポルノ法でどうかは、正直、俺にはわからん。が、もしこれが日中人民友好の架け橋になるのであれば、法益較量の観点から今回についてはお目こぼし、としてもよい気がする。現職役人としては、無責任な言い方でスマン。