日々是雑感

 いろいろある春、である。



話題、1。 米国最高裁のGrokster判決に関する様々な評論が出始めている。森祐治さんもCNETで書いているけど、これについてはコメントを書く・・・んだろうな、やっぱ。
 まず日本のWinny裁判との類似点が大事。Winny裁判では幇助犯として検挙され、Grokster裁判では助長することの違法性という判断で、それぞれ刑事やら民事やらその国情に応じた違いはあれど、まぁだいたい似た判断。識者に言わせると、ベータマックス訴訟での「技術革新無罪」という免罪符が外れたことが大ショックであったようだ。
 「技術革新」を絶対的環境変化と捉え、その無条件受入を「革新的」とし、これらの判決を「保守的」と評するのは、ある視点では正しい。なぜなら、これら判決はIT二重革命以前の環境の上に立つ産業システムがその惰性の上で行ってきた投資行動を保護する思想に貫かれているからだ。
 他方で、そうした考えを採らなければWinnyやGrocksterは合法なのか?どうしても僕は政策の現場にいる関係上、これを「合法とするべきなのか?」というふうに読み替えてしまうから、そう読もう*1。私の答えは、WinnyやGrocksterでの市場価値あるコンテンツの無許諾頒布は合法化できないと考える。幇助犯という刑法上の取扱については賛成できないが、民事であれば責任を負うとすることについて、僕は賛成である*2。それは、コンテンツを商品とする産業のメカニズムがデジタル二重革命以後の社会においても有用だと考えるからである*3。その限りにおいて、生産という貢献をしないフリーライダーによる、「革新」という言葉でフリーライドをさせろと要求する主張には、僕は反感を覚える。
 それと裏腹の問題が、提供者と消費者は何を売買しているのか?という問題である。複製物ではないか?という人には、それはIT二重革命以前のシステムを前提としたものにすぎないと指摘しておこう。むしろコンテンツ産業の機能についての十分な議論をして制度設計をすべきなのだ。この立場から、僕は、個人に対して一定の利用権*4を売っていると考えるのが正しいと思っている。今は著作権システム始まって以来の大転換の時期であり、コンテンツ産業理論の一定の公式化が必要な時なのだが*5
 それでも「革新的」なシステムを求める(自称)先鋭的消費者諸君は、その主張をPtoPソフトウェアでの共有型海賊行為で示威するのは、上のような議論を惹起し、場合によっては現在の事業者のいうとおりの制度再設計を誘発するかもしれないから、得策ではないと知るべきである。市場における消費者の正しい示威行動は、違法行為ではなく、単に買わない、という行為であるべきだ。その上で、提供者により緩やかな条件での提供を働きかけるというのが正しい道ではないか?といっておこう。



話題、2。ミーハーなので、STARWARSエピソード3シスの復讎*6を見に行った。不覚にも、涙がこぼれた。これは、30代以上の旧シリーズ世代、特に旧シリーズのファンだった人には、とても贅沢な体験ができる必見の映画である。
 どんな動作にも「ため」というのがある。「ため」こそ、その動を際だたせる背景なのだが、STARWARSシリーズの場合はこれが20数年の永きにわたるということになる。これは、映画がテレビに対して特権的に持つ「引っ張りとじらし」に相当するだろう*7。ということは、旧シリーズのファンは、これまで20年以上にわたってじらしてもらえたのだ。こんなじらしは生きていてそうそうあるものじゃないし、そもそも有史以来それほどはなかっただろう。
 STARWARS前半三部作(EP1〜EP3)については、この「ため」、或いは「じらし」が魅力の大きな要素であったことはいうまでもない。僕はSTARWARSエピソード1ファントム・メナスを中国・大連で見たが、驚くほど観客は冷めていた。そりゃそうだろう。彼らは「新たな希望」も、「ジェダイの帰還」も見てないんだから。彼らは世代にかかわらず、このじらしと完結というドラマティークに触れていないのだから。

 本屋に行けば、あれまと驚くほど「ばらし本」が増えているが、私はネタバラシはしない。しかし、最後のシーンは、私は、28年の時を繋いだ名シーンだと思う。ひねりはない。そのまま、剛速球だ。思った通りにストーリーは続く。そして、思った通りの結末がおとずれ、思った通り泣くのだ。ルークとアナキンのやがて来る戦いと、そこに至るオビ=ワンの、ヨーダの思いに考えをはせながら。そして親子の葛藤とアナキンの解放へのあのストーリーに、パドメの願いを重ね合わせて涙するのだ。この最後のシーンは、STARWARSシリーズ6作分の制作費と、そして28年の時間のたまものである。
 僕はSTARWARS第一作(=エピソード4「新たなる希望」。そういえば、当時は冒頭のマエセツ頭のこの表記なんて気にもとめなかったっけ。まぁ10才だからしょうがないか。)劇場公開時以来のファンだが、今生きていること、そしてSTARWARSに出会えたことを心の底から感謝したい。




 いい映画は心をキレイにする。どうも少し道に惑っていたようだ。同じことでも、正しい心で決まったこと、したことと、自己中心的な気持ちで決めたこと、やったこととは違う。心を正しく、キレイに持つ訓練が必要なのだ。




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*1:この二つの立場の大きな違いは、「法の欠缺」があった場合、だから合法といって終わりにするのか、それとも何らかの方法で法を埋めて違法にするのか、ということ。「何らかの方法」というのは、拡張解釈その他の法解釈技術もあるし、それで埋められない場合には、違法化を立法すべきだということになる。なお、後者の場合、「合法なのか?」を問う立場からは「合法」を宣言すべきことになるのだが、違法化後も「やってしまったから、これ以後もやってよい」ということにはできないと思う。

*2:この違いは、ごく単純に、民事と刑事の法律上の役割と取扱の問題によるものである。

*3:論拠の詳細は5月中旬にHotwiredに掲載された僕のコラムを参照のこと。

*4:その内容はコンテンツ毎/頒布者毎に違うだろう。利用場所限定とか、転売不可、というのもあっていい。

*5:あまり固まった記述はないよね。

*6:当時高校生だった僕は、エピソード6=「Return of Jedi」が「ジェダイの復讎」と訳されることに強い不満を感じ、自分の中では「ジェダイの再来」と呼んでいた。つい先頃、この邦題は改題され、「ジェダイの帰還」とされるようになった。なお、後で知ったのだが、これは途中まで「Revenge of Jedi」という副題だったことから来たものだという。

*7:映画とテレビの差は何か?映画は一応入ったら最後まで席に座ってくれるから「引っ張ってじらす」ことができるが、テレビはすぐにチャンネルを変えられちゃうからこれができない。というのはコンテンツ産業担当をして間もなく業界で聞いた、自分として納得の説明である。