日々是雑感

久しぶりに、仲間と飲む。仲間は仲間であって、同僚でも、同級生でも、友達でもない。仲間には向いている方向がある。仲間は、何かに向けて動いている。三歩進んで二歩下がるペースだとしても、ね。



話題、1。時間が貰えたので、初めて秋葉原ヨドバシカメラに行ってきた。ラジ館前に口を開けている「自由通路」というヤツを通って、ロビン電子裏辺りに出てみて・・・、あまりに面相を変えたアキハバラに絶句。頭ではわかっていても、僕の神経系統が感覚的にこの光景を拒絶する。これは、秋葉原ではない。
 僕の記憶の中で、秋葉原という街は、様々な専門店が割拠するカオスな空間だった。確かに石丸電気などの大規模店舗はあっても、それは通りに面した1ブロックだけ、今風にいえばスキンにすぎない。本体はその奥にあって、スキン一枚の大規模店舗とは関係なく自律的な街区分けを自然に生み出していた。その光景は、後に大学時代のサークルで非平衡チームがやっていたBZ反応やリーゼガング環を見ながらなんとなしに思い出していたほどだ。言い換えれば、大規模店舗のみで小規模店舗群を廃した都市設計はそもそも秋葉原とは全く異質なものに思えた。
 思えば、秋葉原は変わっていた。すでに市場はなく、当然その中の安くて量が多かった食堂も消えていた。座り込んでいたパソコンショップ*1の店員のニーチャンにランチをおごってもらったあの食堂は。らーめん「いすず」も消えて久しい。今でも残るのは、秋葉原デパートの中にあるお好み焼き屋くらいのものか。
 聞くところでは、秋葉原は戦後のヤミ市から生まれたものらしい。その後、ラジオ部品から家電へ、或いは部品としての真空管からICへ、それを使ったコンピュータへと、秋葉原は、主として供給者側の都合、というか、扱う商品の連関から街の顔を変えていった。もっとも、取り扱う品ごとに街区を生み出していくそのメカニズムは、単に供給者の都合だけでなく、消費者の導線圧力もあったのだろう。それがやがてコンピュータや家電からソフトへ、そして同人誌やフィギュア、やがてはメイド喫茶を生み出していく流れに繋がっているのだと思う。そこまでは、商品のあり方にやや違和感はあるが、秋葉原の街のメカニズムとしてまだ許せるのだ。しかし、ダイビルとヨドバシは秋葉原として認めるわけには、僕には、いかない。
 結論としてだが、ダイビルから向こうは秋葉原と呼ばないことに決めた。そのかわり、今風の呼び方であるアキハバラ*2という表記では呼んでもよい、としようと思う。ま、僕だけの個人的な決めなので別によいのだけど。ただ、秋葉原が縮小してしまったことが、少し寂しいだけだ。



話題、2。メイドリフレに入ってみた。ぷらぷらと歩くうちに、数軒見つかったが、一番まともっぽかったくろすろ〜どに入ってみたのだが、まともだった(笑)*3。価格的にも通常の足按摩プライスであるので、気に入った。
 で、思ったんだけど、「メイド××」が増殖している。秋葉原はいろいろなものを生み出したが、これほど他のサービス業に応用可能なものはかつて無かったと思う。「メイド」というのはサービスの表象、スタイルである。メイド服を着て、来店時には「いらっしゃいませ」の代わりに「お帰りなさいませ」といい、お客さんは「ご主人様」*4であり、帰るときには「いってらっしゃいませ」と発語する。スタイルだから、内容とはほぼ関係ないので、応用可能性が広い。喫茶店から居酒屋へ、マッサージ店へと広がってきている。
 でも、なぜ「メイド」なのか?やや感覚的なのだが、僕は「攻撃されない確実性」なのかもしれないと思う。「安らぎ」とか「癒し」というと少しキレイ事なので、ややきつめに言うと、そういうことだろう。何時の間にやら日本的資本主義という矛盾めいた組合せは、資本主義の勝利で終わり、市場主義の浸透による自己主張(攻撃)と同盟(しばしば防御)という戦いの時代が表面化した。それは燎原の火事のように広がり、ビジネスの場から、学校へ、家庭へと言葉と約定のルールは移植された。規制緩和と市場競争を宣教してきた僕がそれを言うのはいささか噴飯ものなのだが、実はこれは非常にコストの高い調整過程である。米国でコフート心理学が生まれたのは偶然ではない。「メイド」は、一切自己主張をしない(だから自分が部分的にであれ否定される可能性を一切持たない)「安心な相手」として存在するのだ。「メイド」がそうした効果を持つものであれば、「メイドブーム」を生み出した遠因の一部は経済産業省(と旧・通商産業省)にある。すまん。
 だが、それにしても「メイド」は増殖している。このままでは、あらゆるサービス業が「メイド化」の波を被るかもしれない。「メイド食堂」、「メイド書店」、「メイドコンビニ」、「メイドデパート」、「メイド銀行」、「メイドタクシー」、「メイド航空」・・・。公的サービスだって例外ではないな。「メイド農協」、「メイド郵便局」(あ、民営化されちゃうか)、「メイド市役所」、「メイド学校」(「メイド予備校」でもよいかも)、「メイド消防署」に「メイド警察署」、「メイド刑務所」・・・あ、これはまずいわ。「お帰りなさいませ、ご主人様」とは囚人さんを呼ぶわけにはいかないだろう。う〜ん、それをおして考えてみるけど・・・最後はやはり「いってらっしゃい。もう帰ってこられてはいけないですよ(^^;)/~~」とかなる?面白そうだけど、やはりダメだ。刑務所としての機能を果たさない。



話題、3。ビデオPodcastへの対応が思ったより早い。米国ではさっそくTiVOがPodcastへの対応を始めた。これで米国がコンテンツ配信新システムに一歩先に到着するのだろうか?翻って、我が国を見ると、一方では知財高裁が録画ネットの事業に関する違法性を認めたという、システム改変圧力を高めるという点では残念な判決を出したのだが、一方では岩手めんこいTVで金曜深夜に流しているガチャダラポンがPodcastに出るなどの前向きの動きもある。
 今年前半、ビジネスモデルで権利問題を解く試みとして注目された「エウレカセブン」はアニメだったが、アニメはスターに比較的依存しないという性質をもっている。ガチャダラポンもさしてスターには依存しない。ライブドアvsLF+CX事件の副産物とも言えそうなフジテレビ・オン・デマンドや第2日本テレビなどのTV局主導のVODは、スターに依存しないか、又はスポーツのように肖像コントロールのHQとしての協会を持つところとの直接契約による作品を選んでいる。Fandangoプロジェクトを進める吉本興業など有力芸能プロダクションは、だいたい番組製作能力も持っていることが多いので、自主制作・配信モデルを目指しているようだ。制作とスターの間に埋めがたい断絶をはらみながら、しかし、事態は前進している。来年にはネット空間上でどういう情報空間構造を作るかという話がいよいよ盛り上がるのではないかと予測している。ただ、日本では事業者間の関係が過剰に密で、そのビジネスモデル調整には他の国に比べて時間がかかることが常だ。DVRでリアルに、私的複製権でロジカルに武装した消費者の反乱にどう対抗して、どのような戦略をプレイヤーは採っていくのだろうか?消費者の先手、先手を打つ戦略を、この分裂激しいコンテンツ業界の中で誰が打っていけるだろうか。さて、見物である。



 お世話になっていた高村倉太郎さんが、先日、亡くなった。ご高齢だし、撮影監督教会の主(失礼!)だし、何より川島雄三監督の「幕末太陽伝」の撮影をなさっていたというクリエイタとしても実績のある方であるにもかかわらず、若造の役人の言葉にも耳を傾けてくださった、暖かい方だった。恩はまだ1%も返せていない。とにかく、今は冥福をお祈りしたい。合掌。




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*1:当時はパソコンという言葉がなかったので、「マイコン」と呼ばれることが多かったが

*2:マニアのことを今風にはオタクという、みたいなレベルでの話だ。

*3:なんでも、店長さんがリフレクソロジーも好きだし、メイドも好きなので、両方真剣に追求しているそうだ

*4:バリエーションとして「旦那様」「お嬢様」などもある。