著作権はその社会的機能からすると課税すべきではないかと思ったこと

著作権というヤツは、とても面白い。ちょっと意地悪なおもしろさ(他の知財との異同、制定・改変の経緯etc)はオタッキーなので横に置いておくとして、素朴な疑問。


著作権がある表現に対して成立しているとすると、偶然であれ何であれ、それと「同じ」コンテンツは使えない。この「同じ」というのは、サザエさん事件などを見ていると拡張されていて、キャラクターの流用なども否定される。これは、無限の表現空間の中でではあるが、そのうち一部を切り取って誰かのものにしているというのと同じだ。悪意はなくても、そこに立ち入ることは許されない。
さて、コンテンツは模倣とインスパイアの連鎖で作られている。言語空間の理論上、これもしょうがない。すると、さっきは無限の表現空間なんて言ったけど、実際は、相当制限のある空間になる。だから、まぁぶっちゃけていえば、総じて他人のコンテンツの複製要素を持っているし、元ネタ権利者の許諾を得られるか、得られたことにしてくれない限り、だいたいのコンテンツは違法の烙印を押される。


そもそも、なぜ著作権なんてものがあるんだ?と考えると、天賦人権説なんて大嘘*1で、それが創造を誘発するインセンティブになるからだ、と思う。知財法って、そういう設計思想だよね。歴史的経緯からすると、そもそも出版社が自分の権利を守りたかったが、さすがに自分固有の権利を守るべきことを主張するのに舌が絡まって、著作者の権利とそれに隣接する自分の権利という形を生みだし、それが今の著作権体系になっている、と法政大学の白田助教授は説明する。ま、いずれにせよ、天賦人権説は大嘘なんだ。とすると、問題は、使われていない著作権の取扱ということになる。
僕は、端的に言えば、一定期間使わなかったコンテンツの権利は返納させるのがよいと思う。そういう意味では、例えば著作権に課税するという手も一つの道だ。登録制にして*2、登録料を2〜3年に一回最徴収するという方法でもよい。著作権の保持に適切なコストをかけようということだ。一面では他人の創造を妨害しているのだから、それも道理だろう。企業と個人にわけて企業には課税するというのでも、原始権利者(創造者、権利が発生した者の意)と承継権利者(売買、相続などによって原始権利者の権利を承継した者の意)とにわけて承継権利者には課税するというのでもよい。基本は、使わないものは放棄させよう、ということだ。
そんな中、日亜化学工業は現UCBBの中村教授が作った青色ダイオードの特許を放棄したそうだ。これは、例の訴訟や、その他のコストが見えたから、企業として比較衡量の結論、こうなっただろう。仮に知財維持コストがかからず、中村教授が訴訟も起こさなかったら、使われようが使われまいがずっとこの特許は日亜化学工業知財部に眠り、誰かそこに足を引っかけるかわいそうな新しい研究者が出現する時を罠のように狙うのだろう。
知的財産推進本部は、先頃のデジコンWGの報告書を見る限り、ユーザ視点という変化に軸足を移している。言い方を変えれば「儲かって、世の中的にも意味があるコンテンツクリイション」を目指している。それで、今はちょっと引いて、企業や権利者にとって知財が使いやすい環境整備にいそしんでいる事務方は、そろそろ、権利者が知財を使わざるを得なくなるような制度作りを考えるフェーズに入っていかんといけんのではないかいな。



やはり、使わないコンテンツに権利性を与えるのはいかがなものか、と俺は思うぞ。





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*1:抽象的な意味での天賦人権というのは認めるが、法律に書かれた段階でそれに束縛されるのだし、そういう意味では法実証主義的に観念するのが、多分、正しい。

*2:登録制の権利制度を著作権とは別に作るという方法もある。このように、著作権法を変えないで、関連法規として矛盾なく運営される別法で臨むことを、二階建て方式と呼ぶ。