映画の復調を思って涙したこと

 「はるか17歳」というマンガがあって、最近まともに読んだのだけど、けっこう面白い。ありがちな業界もの+ど根性ものなんだけど、おっと、ここでいう「ありがち」と言うのは必ずしも貶し言葉じゃない。僕は、けっこう、オーソドックスなものを評価しているつもりで、そういう意味では、この「ありがち」は、「王道」と読み替えてもらって言い言葉だ。
 それはさておき、その中で、こういう台詞があった。主人公が主演の映画を撮ろうと言うときに、主人公を気に入った映画界のオヤジが口にする台詞だ*1



「まぁ・・・な/邦画もやっと観客をとりもどしてきたし・・・/去年なんか興行収入が過去最高だったからな/テレビ、商社、プロダクションと/いろんなところがビジネスとして出資してくるようになった/だから予算の心配はせんでいいぞ/今俺たちがしなきゃならんのは・・・/とにかくいい映画を作ることだ/二度とそっぽを向かれないように・・・」



 泣ける。いやぁ、久しぶりに泣かせる台詞だ。うちふるえる。
 この最後の台詞、「二度とそっぽを向かれないように・・・」というのがいい。自分たちがそっぽを向かれたことを真正面から受け止めている台詞。プライドに目を曇らせて、映画は素晴らしいとか、映画界はよくやっているとか、そういう自己正当化をせずに、真正面から失敗の時代を受け止める台詞。もし、この言葉が日本の映画界の声を代弁しているなら、松岡会長や岡田相談役から撮影所の技術者から独立系製作会社、配給会社の末端社員まで、心の中でこの言葉をつぶやいているのなら、心の底から僕は嬉しい。
 まぁ、これが所詮はマンガの中の一言だと僕はわかっている。だから、「もし・・・なら」なんだよね。
 でも、ひょっとしたら・・・。ね。



 映画の復調は、テレビ系の人材や技術、そしてテレビ局とのタイアップによって始まった。一度はあれほど虐めた*2テレビ界の協力で始まった。
 映画の復調は、シネコンの導入による映画館産業の改革によって始まった。一度はあれほど虐めた*3シネコンが、結局は映画産業全体を救った。
 これだけを見ても、客観的に言って、映画界の自己主張、或いは復調プロセスの自己定義の多くは間違っていた。曰く、映画は映画人のものであり、テレビとは違う。だから映画人が頑張っていいものを作ればよいのだ。或いは曰く、映画興行界の問題ではなく、映画そのものの問題だ。映画がよければ客が入り、映画館のリフォームもできるのだ。復調のプロセスは、映画界の自己定義の逆をたどり、B29に竹槍で向かうような映画人の奮起によってではなく、外部産業の映画そのものへの参入によって動き出したのである。
 映画は、映画界の自己定義を越えることによって再生するのであり、自己定義は改革の足を遅らせるだけだと思う。しかし、その不明を映画界は恥じる必要はない。この過程はどの産業もたどった道であり、その不明はお役所や、政府そのものも陥った罠である*4。べつに映画産業界の問題ではない。映画産業は、堂々と今の復調に乗って、あらゆる辻浦々で映画を見せられるよう、そして見て貰える映画作りと話題作りができるよう、頑張ればよいのだ*5
 祈安!




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*1:余談だが、高倉健をモデルにした役者と関係が深い映画会社で、映画会社自前の撮影所を持っている、というところからも、そのモデルとなっているのは東映だと思う。

*2:コンテンツ産業の研究においては、映画産業界のいわゆる五社協定というのは、極めてオーソドックスな研究対象なので、あたかも昨日のことのように感じる。たとえ、一般の人々がそれを忘れてしまっていても。それはとても古いことのようだが、業界の中でも古株の方々はまだ経験として覚えているくらいの古さだ。

*3:ワーナーマイカル本牧に始まるシネコンの進出にあって、日本各地の映画興行界はこれに強く反発し、福島県青森県では政府による進出調停問題にまで発展した。

*4:武士階級の奮起を期待した江戸幕府の改革は、農民、商人などの参加による新政府に押し流された。

*5:といいつつ、投資回収を念頭においた事業管理が必要なので、いいもの作るためなら何やってもよいとか考えてはいけないのは当たり前だ。間違っても、「あの山が邪魔だ」といって山を切り崩させたり、「この川が違う」とか言って川の流れを変えさせたりしてウン億円も浪費するようなアホな真似はしてはいけない。