政治は感情と打算だなぁと思うこと

 永田議員が謝罪会見を行って、報道はそれに多する評価で一色になっている。


 永田氏の言い分は
 ・メールの信頼性はかつて証明できると思っていた
 ・でも、メールの信頼性は証明できなかった
 よって ・主観的にはメールの信頼性はあると思っている
     ・証明できない信頼性に基づいてとった言動には謝罪し、責任をとる
 ということだと思います。


 小泉総理始め、論点は、なんで永田氏はメールが信頼できるなんてまだいうのか、というところにあるようですね。


 でもね、人間の内心は自由なわけで。これは憲法もなんもかんも認めた大原則なわけで。これまで文句を言えば、世の中、思想犯だらけなわけで。思うだけなら、或いは個人としてそう思うと主張するだけなら、極論を言えば「殺人は合法だ」*1というのも別にOK、なわけで。永田氏のコメントを評価すると、永田氏の内面はさておき、永田氏はメールがガセだという社会的評価に従うと宣言したわけで。その上で、かつての言動が、その時は「メールは真正だ」が客観現実(或いは証明可能な事象)だと言う前提で正しいと思っていたものが、今やその前提が崩れて不正な行為になってしまったので、謝罪しますといっているわけで。
 我々外部者は、これ以上のことは永田氏には言えない。それ以上、永田氏の主観的認識を云々しても、そりゃ思想犯取締と同じだよ。法規範から論理的に演繹する限りにおいて、もはやそれ以上の論評は社会的意義を失っていて、たとえは悪いがエンターテイメント的トークに過ぎない。


 法は、この感情的動物である人間に、できうる限りの合理性を念頭に置いて、ある種の規範を設定する。法という前提から論理的に演繹して正しくない人間感情というやつ、それをどう評価するかは難しい。その自己規定そのものに価値をおくのか、それとも人間感情の基底性に価値をおくのか、朱子王陽明の対立は根深い*2
 ただ一つ言えることは、最終的には法は政治に服する。そして感情論が法を越えてしまう部分にこそ、政治が存在する。だから政治は感情的なのだ。憲法が政治の産物としての法の立場をわきまえている*3以上、それでよい、と現行法も言っている。


 ただ、今回のマスコミの報道が永田バッシング一辺倒なのはどうしてだろうか?竹中懇談会も走っている中、すこしでも自民党側に貸しを作って、電波利権を守りたいという打算か?とかなんとか思うことはひがめ、やぶ蛇、ゲスの勘ぐりなんですかね。あ、これは内心の自由の範囲内*4、ということで。
 マスコミとは、政治という次元の行為なのであるということは、言っておいてよいのだろうな。うん。




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*1:死刑がある以上、合法的な殺人というのもマージナルにはあります。だから、極論ではないかも。

*2:朱子は、規範は主観の外にあり、言動は規範に合わせなければいけないと説いた。王陽明は、規範は所詮主観から発したものなので、主観の中に規範はビルトインされているから、言動は主観に従って良いと説いた。

*3:国民政治の産物が議会であり、議会政治の産物が法である。それは憲法もそうである。だから、議会政治が万能というわけではないが、国民政治、或いは抽象的な意味での政治は、憲法を凌駕する。と、憲法学は認めている。ただ、「人権」については、法実証主義的思想を採るか、天賦人権説を採るかで立場は変わり、後者では国民政治であっても否定できない部分があるといっている。だから、国民政治が規範改廃能力において全く自由か、というと、う〜ん、そうでないかも。

*4:そしてそれをここで書いていることは、表現の自由の範囲内、ということで。