今を生きるビジネスと根源を守る法と

 今のデジタル社会におけるコンテンツ論の背後にあるのは、「メディアとは何か」という問いである。


 コンテンツの理論は、メディアとはコンテンツの流通システムであるという世界観を宣言する*1。コンテンツの生産と消費と、メディアという機能は、分離されている。
 一方で、メディアの理論は、メディアこそは意味を含んだ供給者であり、コンテンツはそこに含まれる要素だという。コンテンツはメディアのサービスの中に内包される。これをコンテンツ産業論は、従来大規模投資を必要としていたメディア産業を保護するために、コンテンツとサービスをバインドすべく作り出されたフィクションだと考える。メディア論とコンテンツ論の隙間は、実体上は大した違いがないのだが、なかなか埋まらないんだな、これが*2


 著作権法は、創作者=著作権者=所有者、流通業者=隣接「権」者=準所有者という考え方で、この構造を規定しようとする。そこには、「創作者」という「根源」が常に措定されている。ファーストウィンドウ=「根源」サービサーというものが認められている。


 ロイターが、ネットゲーム「セカンドライフ」に記事を提供することにしたという。セカンドライフは、何らインフラを持たない単なるサービスだが、ここではメディアとして機能している。重要なことは、コンテンツを消費させる行為は物理的に運ぶことがその本質ではなく、消費者を誘導して消費させる、まさにプロモーションこそがその本質であるということだ。
 さらに重要なことは、このプロモーションという行為は両義的であり、重層的であるということだ。記事を露出させてユーザを呼び込んでいるのか、ゲームの力で記事を読ませているのか、そこはおそらく両方の見方が正しい。その記事の中で別のゲームの報道をすることもあるし、このゲームでロイターが流れているシーンがテレビで見られたりもするだろう。こうした場合、ビジネスは直接的な関係者の間の合意された寄与関係でその枠組みが決まる。そこで引用されたコンテンツのさらに引用元のコンテンツの・・・なんて、考えているわけにはいかないのだ*3


 一瞬一瞬のビジネスが生み出す重層的な創作。無限に原創作者を追える著作権法は、どこまで真面目に機能させて良いのだろうか。
 松本零士さんが槇原敬之さんに、盗作されたとして抗議しているらしい。槙原氏サイドは、そもそも「銀河鉄道」といコンセプト自体が盗作だとも言っているとか。非難の連鎖が法的権利の連鎖として現れたとき、今を生きる者たちは自らががんじがらめの中にいることを知るだろう。


 ここにこそ、現行著作権法と未来のコンテンツビジネスの、それこそ根本的な対立がある、ように僕には見える。
 しかし、対立がはっきりするだけで、とりあえず、前進!なのだが。



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*1:もちろんメディアの中にもコンテンツ従事者は相当数埋め込まれているので、彼らはこれを暴論だというだろう。そう、暴論である。だが、世界観というのは、そもそもが単純すぎる暴論なのだ。何がベースで、何が修正条項かということを決めたいというのが、こうした世界観の意図である。メディアの中に内包されたコンテンツ従事者の存在こそ、この世界観を拒否しようというメディア企業側の戦略でもある。

*2:おそらく、メディア論者側も、コンテンツ論者側も、その主張が何を帰結するかをわかった上で、自らの議論を展開しているからだろう。イデオロギーについてのマルクスの定義「彼らはそれを知らない。しかし、それをやっている」に対して、ラカンが、「彼らはそれを知っている。だからそれをやっている」という定義をぶつけたことを思い出す。

*3:こういうと、中には、それは技術的にそうした属性の継承システムがないからだという人がいるが、それは間違いだと思う。なぜなら、問題の本質は、人間の判断は一定の単純な枠組みの中でしかできないということにあるからだ。多段階的に属性を追ってそれに従って契約関係を決めるという行為は、契約自由の原則墨守する限り、それ自身が過度に複雑になる。そういう意味では、判断時には関係は単純だが、後でそれが背後にある関係性に基づいて決済されるという、pixyを含む報酬分配システムが、唯一重層的権利関係を真面目に追って実行するソリューションの中では実現性がありそうなものである。これは、民法が、一方では契約自由の原則を謳いながら、他方ではその最終調整条項である「不法行為による損害賠償」では求償のあり方を金銭賠償に限定しようとしているのとおなじことだ。