テレビの資産価値基準策定、頑張れ、

日経新聞に拠れば、総務省はテレビ番組の資産価値を規定するための統一基準作りに乗り出すということだ。久しぶりに理論的に非の打ち所がない手の打ち方である。


 知的財産については、それが創作インセンティブになると同時に、それを利活用する側にとってはディスインセンティブとなることがよく知られている。とりわけ、再創作での利用についてもディスインセンティブとなることの意味は大きい*1。これを問題にする立場からはコピーレフトという過激な主張も行われている。しかし、現行の知的財産という考え方を使い、契約理論を用いて、自由利用宣言を含む個別の利用契約が要らないような措置を著作者自らが行えるようにすれば、利用時許諾必要型も利用時許諾不要型もどちらも実現できるという柔軟さもあって、「思想としてのコピーレフト」は認められてはいるものの、それを実現するには「制度としては知的財産(コピーライト)のフレームワークの上で処理をする」ということになっている*2


 問題は、この知的財産について、広く利用させることの方が合理的であるような環境設定を如何にするかである。
 同様の問題が土地に関して発生したバブル後の日本において、土地取引税の減免や、土地評価額の見直しなど、様々な政策が採られたように記憶している。要は、土地をただ持っておくことのデメリットを強くすれば、それを打ち消すように利用促進させなければならなくなるというのが基本的な考え方だ*3。これは知的財産についても応用可能で、事実、特許など他の工業所有権は権利の延長登録料などの形で保有のデメリットが制度にビルドインされていた。
 一方、テレビについては、そもそも著作権には保有のための手続などなく、また、従来、大凡テレビ番組は放送が終われば価値がないというものすごく時代錯誤なドグマで*4資産価値がほぼゼロ化されていた。そんなわけで、テレビ局にしてみれば、コンテンツの利用圧力が生じず、利用させないからといって放棄しなければならない圧力もなく、結局、死蔵するというオプションが過度に採りやすくなっていた。ここに対処しようというのだから、まさに慧眼である。


 コンテンツの資産性について論じられる時、いわゆる権利者は必ず権利の強化が自らの創作インセンティブになると主張する。そうかもしれない。しかし、それを十分社会的に利用させなければ、その効用は社会に還元されない。
 今度は利用者に聞くと、過激なコピーレフト論者は総て開放しろという。それは、利用者としてあまりに身勝手な理屈で、創作者がその貢献を金銭的に回収できるという保証がまったくない。
 資産としての取扱のあり方は社会政策であり、単に利用者や、もちろん単に権利者の意見を聞いてその通りにすればよいものではない。責任ある仲裁者が、コンテンツが生産され、流通され、利用されていく具体的なあり方を考察しながら、仕組みを設計すべきものである。自由にさせればいいという理屈もあろうが、その調整にかかる時間をどう考えるかが問題だ。計画経済論者ですら、1年の予算を決定するために解くべき産業連関表の計算に1年かかるというのでは、産業連関表は使えないという当たり前の判断をする。1年後のために決めなければならないことを1年以上決めないでよい政策は、政策の体をなさない。


 さて、この政策がテレビ番組に限定されているのは、それがテレビ局の経営まで含めて指導権限を持っている総務省の提唱によるものだからである*5。一方で、音楽やテレビ番組以外の映像、ゲームなどについては、経済産業省がおそらく所管することになるのだろう。例えば映画はフィルムに資産価値を認めた上で2年間の特別償却を認めているが、その資産価値水準は何をもって決めるか、資産価値を認める対象はフィルムという固定物であるべきか知財権そのものであるべきかなど、ここから触発されて論ずべき部分は多いように思われる。経済産業省は、総務省よりも生粋の経済官庁として、ここではどんな対応を見せるのだろうか。興味深く見守りたい。


 ま、総務省が頑張るといってくれたので、とりあえず、前進。(途中で止めたらただじゃおかんぞ)


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*1:日本語の「学び」が「真似び」に由来することなど、創作活動の発展に先行創作物の利活用をすることの必要性は強く叫ばれている。また、ボードリヤールのシュミラークル説は、メディア芸術=コンテンツ創作活動の中で、先行創作物の利活用が不可欠であることを示している。ソシュール言語学をベースにしても、先行創作物との関係性を規定することが新しい創作にとっては不可欠であることは明らかだから、その手法として先行創作物を創作の材料として取り込むことが自由にできることはとても重要なことだと思う。

*2:クリエイティブコモンズとか、GPLってのがこれですな。

*3:もちろん、究極の対応として所有権を放棄するという選択もあり得る。ま、平安時代に行われた「知行地の寄進」のように、ある種の信託行為によって、所有権を放棄したような表向きの単なる信託行為とかに移行するかもしれないけどね。

*4:この言い方を批判するなら、連ドラのビデオビジネスをこれと矛盾なく説明するコメント付きでお願いします

*5:側聞するところでは、日本版SOX法への対応の一環として、資産価値の明確化をするためということらしい。