自己責任の時代のロビー活動

screenshot ふとCNETを見ていたら、先日、オーマイニュースのシンポジウムの時にお会いした佐々木さんが「オーマイニュースの記事への批判に答えて」というエントリーを発表していたので読んでみた。僕の胸に刺さったのは、「政府や行政、大企業を批判をすれば、誰も文句は言わないという時代は終わったのである。」というフレーズである。


 このフレーズは当たり前のことを言っている。当たり前なんだけどね、それが頭ではなく神経系にズーンと実感として響いたのだ。
 思い出したのは、2001年当時文化庁著作権課長をされていた岡本薫氏があるパネルディスカッションでこのように意見表明をしたことだ。
 「皆さんは著作権法をこう変えるべきだ、とおっしゃる。しかし、文化庁はその意見はもう聞かない。あらかたのことは契約で解決できるのであり、著作権法の書きぶりでものごとを解決すべきではない。それに、文化庁がいうとおりに法律改正しないとみなさんから怒られるかもしれないが、聞いても別の誰かから怒られる。皆さんがそう主張されるのであれば、それを社会的合意にしてもらえれば、法文の改正作業は文化庁が責任をもってやります。」
 これは、けっこうショックだった。「政府や・・・終わった」という考えは自分も持っていた。しかし、それはどこか理想主義的な目標のようにまだまだ思えていたものだ。因循姑息な役人稼業をしていたせいかもしれないが。
 もう少し言うと、この「政府や・・・終わった」という考えは、市場経済論、そしてそれにリードされた規制緩和論の中にそもそも内包されていた考え方であり、それが通商産業省やその他のオピニオンリーダー達の努力で一歩一歩反対論をかき分けて世に出て行く姿を見ていた自分としては、これはある種の「ノブレスオブリージュ」のようなものかとも思っていた。つまり、政府によって、政府のパフォーマンスを向上するために意図的に(もっと文学的には「前向きな意味で」)採られた方針であると思っていたのだ。
 しかし、岡本課長のメッセージは、それが怒られたくないという小市民的自意識の中からも生まれることを示唆していた。岡本課長ご自身はとても見識のある方で、今はご専門の著作権や教育論などの方面で研究者になっておられる。その見識を認めていたからこそ、この発言は僕にとってはけっこう衝撃的だったのだ*1


 「政府や大企業を批判する」うちに、(少なくとも表面的な)自己反省を政府や大企業がして、うん、だったら民主主義なんだから自分たちは民主的に決まったことを忠実に実行するマシンになります!と言った瞬間に、批判の矢は自らに帰る。 一部の左翼的言説が時としてとても欺瞞的に僕には見えることの原因は、この構造によって「受け止められたら矛盾する」、或いは「拒否されることによって意味を持つ」ような性質を持つ主張が散見されることにある。
 政府や大企業が批判に答えて従来の機能を放棄する時、発言者として発言の自己責任が問われることになる。部分的な視野しか持たず、特定の事象に対して表明する不平不満は、政治的批判としては極めて品位の低い、危ういものである。


 政策担当者がそういう態度であれば、佐々木さんの指摘するように政治的言説がそのあり方を見直すのはもはや当然として、ロビー活動もさらにそのあり方を見直さなければならない。
 よりまっとうな方法としては、岡本課長が指摘するように、きちんと相手方と向き合い、頼りにならない*2役所をすっ飛ばして、自律的に合意形成を図る、というのがある。民主主義論の中に見られる多元的政策決定過程というやつで、これが「よりまっとうだ」というのは、米国をアーキタイプと考える風潮の元では許されるだろう。
 しかし、本来的にレントシーキング活動であるロビー活動の本旨としてより目指すべき*3は、もっと有力な政策担当者の在処を探して積極的にアプローチし具体的な動きをプロデュースすることである。こうなると、人々は直接政治に行くんだろうな。審議会をリードし、はては国会議員にもなろうという有力有識者の皆さんのところに行くかもしれない*4
 いずれにせよ、政府にアプローチしてもしょうがないのだ。ロビー活動は、そのあり方を見直すべきだと思う。


 ロビー活動は民主主義のある種の形である。それが多元化するだけでも、民主主義としては、とりあえず、前進。である。




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*1:実際、規制緩和が一般的な風潮となる中で、法制度を樹立することから来る責任を回避するために、敢えて制度を構築することを避けるような、「無責任な市場主義」も見られるようになったと思う。何でもかんでも法律や規制にするのも考えものだが、これもまた考えものだ。

*2:合意ができれば法文にはするというので、書記官程度の意味はある。あ、「社会」は国民投票か大規模な調査をしなければ説得力ある「反対表明」ができないので、関係業界が合意すれば、たぶん「合意は形成された」として法文はできて、「社会」に対してそのルールは押しつけられる。とすると、業界から世の中への権力装置にはなっているのか。業界内部での対立には無力だが、業界と世の中との対立には思いっきり業界側に立ってくれる。それだけでもすごいことだな。

*3:「黒が明るい世界」では、「白は暗い」のだ。

*4:あー、そうかー、規制緩和論の行き先は議員立法の活性化とそれによる議会の復権にあったのか。そりゃ十年以上前にはわからなかったよ。てっきり、ノブレスオブリージュを持つ政府官僚は、規制緩和を乗り越えて、議会や業界も巻き込んでより柔軟に制度を調整するメカニズムをねばり強く提案するだろうと思っていたよ。まさか失敗を恐れ、自身がロビースト化して、政治に阿ろうとするとは思わなかった。俺が甘かった。orz