信じるという甘え

 政府主催のタウンミーティングでやらせ質問があったということで、批判が相次いでいる。


 ま、批判されてもしょうがない。公式にはガチンコでやっていると言っているんだからさ。嘘は嘘だったわけだ。
 しかし、そもそも官僚がガチンコでホントにやるわけない、という穿ったわけ知りの言葉も出ている。これも的を射ている点がある。


 官僚批判は続いている。同時に、官僚依存も続いている。この二つが併存するのは、とても不思議なことだ。
 官僚のやり方は基本的に一つである。それは、長期間の内部検討と、それに比べればごく一瞬の外部審査。外部審査は国会や民間委員による審議会であったりする*1が、その外部審査をできる限り根回し作戦*2大過なく過ごすということである。官僚が、自らに対する評価を、他者の手に無条件に委ねることは、基本的に、ない。おそらくは、ガチンコのはずが根回しによって予定調和になっているこうした審議と同じ目線で、内閣がガチンコでやると公言していたはずのタウンミーティングを官僚は見てしまったのだろう。哀しい習性というべきか。
 この習性をどう論評するかは難しい。スムースな国家運営のため、とも言える。無様な運営だと自分の出世に響くから、かもしれない。そもそも物事がシャンシャンで進んでいくことが美しいという美意識があるのだ、といわれればそうかもしれない。エリートと言われ続けるうちに、批判されることそのものを極度に恐れるようになったからだ、というのも説得力がある。人の内面を推し量るのはとてもむずかしい。官僚批判がお好きな人はそういう理由を探すし、官僚組織のあり方を擁護したい人はそういう言葉を紡ぐ。私にはどれが正しいかはわからない。
 しかし、官僚は予期できない他者との接触を避ける習性がある、とだけは言えるだろう*3


 理由はどうあれ、したがって、政府を監視するはずの外部審査の界面は、実際には他ならぬ政府の官僚によって一定の調整を受けているといえる。言い換えれば、現実問題として、政府の正しさは自己浄化能力に依存しているということになる。


 官僚批判をする人ならば、官僚の自己浄化能力など信じられるはずがない。いや、信じてはいけない。官僚の持っている権能を可能な限り全て市場システムや市民コミュニティの機能で置き換えて、官僚を最小限の居場所に押し込める主張がなされなくてはならない。逆に、官僚を信ずるなら、そもそもやらせをやってたといってもそれは正しい理由のためであるはずなので、問題にする必要はない。批判するのか、信用するかは、私には二者択一のものであるように思える。
 それでは、なぜ批判しながら、官僚の仕事に依存するのだろう?ひょっとして、それは娯楽としての批判であり、批判する者として当然問われる代案を考える苦労やリスクなんて負いたくない、或いはもっと進んで、そもそも実はそれが問題とも心の底では思っていないのだろうか?よくはわからないが、市民が怒らないのでは、政府のやり方も官僚の考え方も変わりはしないだろう。それを実は市民は歓迎している、ということは、ラカンによるイデオロギーの定義*4が暗示しているように思える。
 それを「甘え」と呼ぶのは、いささか厳しいだろうか。


 ふと後ろを振り返ることも、前にいくための過程なのだろう。ならば、とりあえず、前進。



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*1:記者会見なんかもそうしたものの一つとみなされる時がある。法的効果は持たないけれど。

*2:審議会なんかの場合は官僚組織自身が委員を選ぶが、その委員選択段階ですでに「配慮」がなされる。

*3:客商売をしている人達とは、そういう意味で、性向も力量も違うのである。

*4:フランスの精神分析学者・哲学者であるラカンは「イデオロギー」を「みんながそれをしっている。だからそれをやっている。」と表現してのけた。これはマルクスイデオロギーの定義、「誰もそれをしらない。なのにそれをやっている。」を下敷きにしたものである。