大臣はたいへんだ

 柳沢伯夫厚生労働大臣の発言が物議をかもしている。
 かもしているのだが、どうにも不自然な点がある。それは、一連の報道が、前後の文脈を語ることなく、問題となっている言葉だけを報じている点だ。


 当たり前のことだが、全ての言葉は文脈の中に位置づけられて意味を得る。言い換えれば、文脈を離れて言葉の意味など存在しない。
 例えば、「天皇機関説」というのがある。これは政府を一つの社会的機能を果たす「メカニズム」と考えると天皇も一つの「機関」だよね、というものだ*1。文脈を無視して、当の天皇陛下に「お前は機関だ!」と直接いうのは礼節の面でいかがかと思うが、社会科学的議論の中で「天皇は機関だ」というのは、たとえ天皇陛下ご臨席の場であっても普通は問題にはならない*2
 天皇が機関でもいいのだから、女性が子供を産む機械というのも許されるのではないか*3。もちろん、それは男性が子供を産ませる機械であり、両性共に働く機械であり、子供を育てる機械であり、と、まぁそういう風に人間を機械とあらゆる面で例えるという方法論の上においてではあるが。私は、件の柳沢発言の全てをまだ聞いていないのだけど、文字資料を読む限りでは、少なくとも「こんな例え方ですいません」と何度も繰り返しているようである。ボキャブラリーの貧困という批判はあるだろうが、本人にはどうも悪気はないようだ。


 「子供二人は健全」はさらにお笑い。まぁ人口減少を問題にせざるを得ない厚生労働大臣の立場では、理解できる発言だわな。かみつくにしても、「健全」とかおまいに判断されたくねぇや、というのがせいぜいだろう。僕には「だったら産もうと思えるように、産んだ後の保育サービスその他の社会的サポートをもう少ししっかりしろ。正社員を不当に擁護するようなしくみはやめろ*4。」と要求することの方が芸があるように思える。


 かつて一緒に遊んだこともある永田寿康が議員を辞める羽目に陥った時にも感じたが、人の揚げ足取りというのは本当に見苦しい。本当に国民の信を得たいなら、民主党は、戦い方をもう少し見直すべきではないだろうか。それとも、そういう見苦しさを感じないほど国民は愚鈍だという認識だろうか?
 少数派かもしれないが、How to expressよりもWhat to expressの方が僕は圧倒的に興味がある。


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*1:人間の集まりを一定の機能を果たす有機体というふうに捉える認識法は社会科学の世界ではごく自然に行われるもので、いちいちすべてのアスペクト人間性を見出し個別化するロマンティズムを回避するためには有効だと思う。

*2:問題にならないはずだが、この「天皇機関説」が歴史に記録されているのは、これを「不敬だ」といった連中が居たからだ。

*3:もちろん、あらゆる文脈を無視して「『天皇が機関』だなど不敬だ!」といきりたった輩もいるのだから、同じようにこの言葉にいきりたつ人もいるだろうとは思う。それが妥当かどうかは別にして。

*4:保育園での保育決定にあたっては、仕事があることが事実上必須の前提要件になる。しかし、これは産休や育休など一時的就業断絶状態にある人にのみ妥当する話で、一度就業状態が完全に断絶して新たな仕事を探そうという場合には、逆に、保育してもらえることが決まらないと、仕事を決めることができないというパラドクス、ジレンマが生じる。自分の息子を保育園に入れる時に初めて知ったのだけど、これでは、保育園はいわゆる終身雇用的システムの中での正社員を過度に擁護する仕組みになっていると思わざるを得ない。