知財戦略本部の踏ん張りに期待する

 先日、授業のために資料を漁っていると、知財戦略推進本部の1/22日コンテンツ専門調査会企画WGに提出された慶応大学の国領先生のメモに出会った。その時僕がやっていた授業は「コンテンツとコミュニケーションのビジネスモデル相関」というやつで、如何に今のコンテンツ産業がユーザによる自律的改変・再配布行為と密接な関係にあるか、またコミュニケーションビジネスはまさにそこに依存しているかという議論をしていたので、国領先生の次のような指摘はよいネタだったのである。
 国領さんは言う*1。「全体として、コンテンツ業界において価値を創造するのは事業者サイドで、ユーザーはそれを消費するのみ、という20世紀型のモデルで論理が構築されているように見受けられる。ここで認識すべき重要な変化はネットワーク時代においては、ユーザー側も大きな情報発信力を持つようにな ってきていることである。・・・(中略)・・・これはすなわち、消費者が最終製品としての情報を一方向 的に受け取る存在ではなく、事業者から「中間財:素材」としてのコンテンツを手に入れて、加工して再流通させるprosumer(生産をする消費者)化しつつあることを反映している。コンテンツ業界を支えるマーケティングの分野が大きくモデルを変化させようとしている時代に、コンテンツ流通業界だけが古いモデルにしがみつこうとしても、限界があることを理解しておかなければならない。・・・(後略)・・・」
 その時はそれだけで終わっていたのだけど、先日、ふとしたことから気になって、知財本部の現時点での資料を覗いてみた。



 ビックリ・・・



 退化している。というか、お役所文書に成り下がっている。
 コンテンツ専門調査会WGの報告書(案)(全文はこちら)からは創造サイクルの思想が消えている。そればかりか、知的創造サイクル専門調査会の方策(案)(全文はこちら)からも「サイクル」の思想がどっかにいってしまっている。タイトルだけ?これでは、もはや「サイクル専門調査会」とはいえない羊頭狗肉である。
 なぜなんだろう?昨年は思考の枠組みをあれほど進歩させてくれた知財戦略本部なのに。
 自分の役人経験から振り返ると・・・、う〜ん、ちょっと急いでいるのかなぁ。
 実は、「お役所文書」などと言い放つのには訳がある。
 政府官僚は、主として二つのことが仕事であり、成果であると考えている。すなわち、予算の獲得と制度の改変である。考えてみれば、どちらも官僚の仕事からすれば中間成果であり、世の中がそれでよくなるという最終成果ではない。しかし、それが現状ではある。
 官僚とはいえ人の子である。そう設定されると、志が如何に高くても、それを実現しようと思う。政府機関の研究会報告書というのは、それを持って、翌年、関係各省庁を渡り歩いて物事を調整するための武器みたいなものだから、いきおい、その年できそうな予算獲得や制度改正を書き込んだ文書を作りがちである。例えば、僕がかつていた経済産業省をみてみると、「ビジョン」*2という報告書の適用期間も短くなっているし、それと鶏卵関係なのだが、報告書が下敷きにしている視野も短期的になっている。これはそういう事情によるのだ*3



 しかし、急がば回れという言葉がある。
 確かに調整の方法として、一気に遠くを見渡してプロセスを設計し、推進していくのではなく、足下の問題を一つ一つ解いていく方法がないわけではない。しかし、そうした漸進手法が長期的視野戦略と同じだけの成果を上げるには一つだけ重要な前提がある。それは、見直しサイクルが十分早いことと、方針転換が全く自由に行えるということだ。
 役所の判断は一年周期でしかないし、一般的に役人は往々にして間違いを認められない。このことは、役所が漸進手法を採るのは高コストだということを意味する。間違えれば間違えただけ後で修正するコストが雪だるま式に増えるのだ。だから、これを避けるためには、大きな間違いは犯さないための長期ビジョンが必要になるということを認めねばならない。
 だから、急がば回れ、である。
 それに、世間を見回すと、意外と正論というのはそれなりの効果はある。それなりでしかないけど。逆に、それがわからないというのであれば、官僚としてその分野を担当する能力に欠けるので、配置転換を願い出るべきだと思う。大事なのは担当者である官僚個人の人生設計ではなく、世の中である。人事もそういう真摯な配転願いは誠意の表れであると評価し、失点とせず適正な部署への配置をするのが正しい態度ではないだろうか*4
 批判しているのではない。私は、官僚のみなさんに期待しているのだ*5



 3月までまだ時間はある。国領先生のように、苦言を呈してくれる委員もいる。
 それに、何より、昨年のように将来を見据えた思想を打ち出せた実績もある。
 中身の一条、一条をちまちま詰めるのだけでなく、それが大方針に合っているかを考えながら進む態度が大事なのであり、そのために大方針を文字にし、形にする必要があるというだけの話だ。



 知財戦略本部の、この重大場での、ここ一番の踏ん張りに期待したい。



 失態は、成功のための前進である。




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*1:全文はこちら

*2:一般的には経営上の主体的到達目標のことである(らしい)が、役所(特に経済産業省)用語としては、毎年作られる「新政策」(年度計画)に対して、数年に一度だけ作られる長期目標のこと。かつてはこうした長期ビジョンを打ち出すことで産業界にも影響を与えられた時代があり、そうした行政のあり方は「ビジョン行政」とも呼ばれた。

*3:政府機関が開催する研究会の報告書は、通常、事務局が素案を作成し、座長の事前スクリーニングを経て研究会に提出され、委員の意見による修正を経て成案となる。座長を含めて委員は大人なので、さすがにちゃぶ台をひっくり返すような全面的書き換え意見を出すことはない。従って、細かいところは別にして、大きな構造が委員の意見でそう大きく変わることはない。逆に言えば、それだけ事務局の調整余地が大きいということだ。

*4:最近では役人も特に若いやつがどんどん辞めるせいか、人事が単なる頭数あわせに追われている感はある。それはとても弊害が大きいので、是非一考した方がよいと思う。適正and/orやる気を欠いた人間が担当者となったことで、問題が生じたり、産業界や社会から見捨てられた領域は意外と多いと思う。

*5:官僚は、江戸幕府で言えば士農工商の「士」であり、中国流に言えば「士大夫」であり、韓国流に言えば「両班」であり、ヨーロッパ流に言えば「貴族」であると思う。財産もなく、世襲の特権もなく、そもそも身分ですらないけど。そして、世間からは嫉妬ややっかみの対象になってはいるから、割の合わない話ではあるかもしれないけど。それでも、そういう心持ちを捨ててはならないのだと思う。志が高ければ、やっかみによる非難と、期待を込めた叱責の区別くらいつくだろう。自分はそうでも全体のシステムがままならないこともあろうが、その時は、システムを変えられない悔しさを、発言者に対する怒りではなく、自らに対する警めに変える態度が生まれるだろう。
 批判しているお前も官僚だろうって?確かに、まだ半分はそうだ。だから、自分が享受している特権を理解しているからこそ、それに応えられるだけでも世の中に貢献したいと思って、自分の道を歩くことにしているのさ。