忙中閑有。とにかく三題

いそがしー。あひー。何だかわからないのだが、やることに追われている。くー。
泣き言を言ってもしゃぁないわな。とにかく、三つ書く。


ひと〜つ
 森=川内論争が面白いのだわ。何がって、すご〜く今風なアナクロで。
 CNETのブログで坂本多聞さんが「著作権法の誤解をただす川内康範氏の気概」というのを書いていて、それにものがたりというブログで「著作者人格権の問題ではない、実演家=派生物著作者の自由の問題だ」という反応が出ていた。いちいち要約している時間がないから、とんで見てチョ。
 事実の法的解釈に関する議論としては、細かいところ*1を抜きにすると、この対立はとても典型的な例だ。
 僕は思うのだが、法判断は、しばしば、志向の婢になる。つまり「客観的な法的判断」なんてのはなくて、あるルールについての価値判断が前に立って、何とかして是としよう、否としよう、として法解釈は行われる*2。だから、立ち位置によって、法解釈の方向性も違うのだ。ま、その結論としてのバランス感を「リーガルマインド」とかいうこともあるけどねー。
 どっちでもいいけど、権利云々を振りかざすよりも、そもそも森進一に歌わせる段階で「一切の改編(アドリブを含む)を将来にわたって許さないからね」と契約しておいた方がよかったね。完全に自由な人同士の間に、明示的合意なくしてそもそも当然だということなんて、自然法則以外ない、と僕は思う。
 それにしても、法そのもののあり方論*3としては、はセリの時代に同一性保持権をそこまで強固に保護することに、あまり公共政策としての意義は感じないなー。シュミラークルの時代が現実のものとして展開されている今という時代には、あまりにアナクロなお話のようにも見える。


ひと〜つ
 「あるある大辞典II」問題で、番組内容規制を強化しようという話が総務省近辺であると報じられている。
 その是非や真偽はどうでもいい。
 ただ、まぁ娯楽番組なんて基本的に「フィクション」ですからね。その程度のリテラシーは持つべきだ。
 でも、それと、放送法が定めた「真実を報道せよ」という規定との間にギャップがあったことは、制度設計&運営上反省すべきことかもしれない。
 いっそ、民法地上波はこうした面白くて、ややきわどそうな番組は全部ネット配信に移したらどうでしょうか?通信ベースのサービスなら内容規制なんてなんにもないから、お役所に介入される危険なく、面白い番組が出せます。
 日本と同様に放送と通信の間に内容規制上の差がつけられている米国*4だと、放送で流せないスパイシーな「完全版」をネット配信で航海したりすることがありますな。あれと同じです。
 公から割当ててもらっているものには、用途規制があるのはしょうがない。株主からもらっているお金に株主の意図という規制があるのと同じです。規制を強化するといわれれば、特に代替手段がある今となっては、しょうがないのかもしれません。
 娯楽中心のコンテンツはネットに逃げろ!不自由な電波の世界を捨てて!
 ・・・ということかも。


ひと〜つ
 経済財政諮問会議で「デジタルコンテンツ流通促進法」が民間委員から突っ込まれたという記事を日経で見ました。
 ひとことだけかいておきたい。
 お・れ・は・な・に・も・や・っ・て・な・い。


 ま、なんにしても世の中は前進しているのかもしれない。俺も前進しないと・・・


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*1:この論争中では著作者人格権JASRACが出てこれるかどうか。

*2:行政法学において、東大系の理論が「法適用の裁量は、「××することができる」というような法文上の表現から発する」と考えたのに対し、京大学派は「すべての文言の解釈の中に裁量行為の芽が存在する」と応じたのは興味深い。行政官としての経験から、事実は京大学派の勝ちだ、といいたい。

*3:当然、解釈論としてもこの志向性は影響する。

*4:構造上は「同様に」だが、運用上の縛りのきつさは米国の方が全然日本より上、なんすけどね。これは規定自体というよりは、規定の運用の問題ですが。