なんかモード変わりかな?

 先日、「新帝国主義論」(武者陵司著。東洋経済新報社刊)という本を読んだ。僕の言葉で一気に翻訳すると、まぁ技術革新とか国際政治の事情により一度飽和したはずの世界市場がリセグメントされていた状況*1が国際政治的な動き、管理通貨制度の機能不全、インターネットの実用化などでもう一度融合モードに進み*2、そこで先進国の資本と中国、インドといった新興大*3の生産能力が結合して世界的な好景気を生んだため、一国閉鎖系を前提とした経済学的常識を越えた安定成長が起きているという話*4。さらに日本は、本来デフレで経済危機に陥るべき時に、片方では輸入製品のそれ以上の価格下落で実質所得が維持できたという幸運と、積み上がった資本がこのメカニズムによって早期に主要企業業績の向上に結びついたという幸運と、二重の幸運に恵まれたよね、ということ*5


 この仕組みが維持できる限り、米国の金融資産に対する信頼は揺らがないはずだが、ちょっと様子が違う。日本では物価は横ばいかマイナスでもよいから実質所得向上をやはり目指したいところだが、どうもインフレに転じそうだ。
 鍵は石油の高騰。日本では、これは物価上昇の、伝統的にとても正統性があるストーリーだからね。これは米国も、企業部門より家計部門を直撃することになる*6


 何かが変わってきたような気がする。


 日本のバブルの失敗は、土地という経済活動の必須要素をたかだか金融的な数字積み重ねのために投機対象化したということにあって、金融経済の根拠は実体経済だと言うことを甘く見たせいだとずーっと思っている*7。一国経済モデルはグローバル経済状態では全く通用しないが、グローバルな系全体を一国経済モデルで捉え直せば、また一国経済モデルでの議論は息を吹き返す。世界中が石油という化石燃料に依存している状態では、石油は世界中のどこでも意義ある経済活動の必須要素であると言えるだろう。とすると、ここで土地をエネルギーと読み替えれば、日本の話も世界の話もどうも同じ話に感じるのは僕の目の錯覚か?


 エネルギー問題。僕は環境問題無視派なので敏感に反応しない方なのだが、こういう社会経済的文脈からやはり考えておかなければいけないんだろうな、と痛感した。勉強せにゃあのう。
 とりあえず一歩前進と日記には書いておこう。




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*1:いわゆる東西冷戦構造。

*2:いわゆるグローバル化

*3:新興、とか発展途上、とかといいつつ、その実態は単に直近の政治選択に失敗しただけの潜在的先進国

*4:池田信夫blogでは、ホッブスレーニンの枠組みで見るのは間違いで、ネグリやハートのいう「帝国」だという。基本的に同意するんだけど、レーニンの枠組みを、「国家」を相対化することで修正したという視点でも見れるんではないかと思うんだけどなぁ。まぁそんな根本的な修正をしたらもう「帝国主義論」じゃないじゃん!って言われそうだけど。

*5:僕流の解釈では、なんだかレーニン帝国主義思想と循環史観が結びついた、これで飢餓と戦争がなければ非平衡的安定というパラダイス的な考えに繋がるような話だと思ったりする。でも、まぁそんなパラダイスは、ね。

*6:余談だけど、米国は世界中の石油採掘権をほぼ採れているので、米国政府としては国家経済全体を見ればまぁ笑ってすませることだと思う。しかし、残念ながら米国の手から漏れている石油の大生産国として、ロシアとイランがある。特にイラン。これまでの経緯もあってイランとは、ロシアとのような提携もできなければ、征服もできない。でも米国が石油価格を上げれば、イランにも金が転がり込む。これは延々と続いている西ユーラシア東西抗争に、ちょっとした環境変化を与えると思っている。

*7:金融経済と実体経済の離婚と僕はこれを呼んでいる。