あけおめ。そして著作権に関する結論めいたこと#1。

 あけおめデス。今年は、試しにいろんな人に出す年賀メールを止めてみました。どうでしょうかね。



 昨年は、コミケで一年が終わりました。中にはこのブログを読んで来て頂いた方もいて*1、嬉しい限りです。
 印象的なお客さんに、2001年段階の基本理論を手に取って頂き、「ちょっと内容が古いですね」と言われた方がいます(買って頂きましたが)。そりゃ2001年段階だからね。とはいいつつ、そこから先の議論をきちんとしていないというのは問題なんだよな。


 一般に、役人が展開する論理は古いです。それは、確立した理論体系から引っ張ってきたり、或いは国内外を問わず論客の議論を持ち出して尻馬に乗っかったりするからですが、哀しいかな、どんな論客でも組織内ではせいぜい中間管理職という状況が生み出す組織人の限界だと僕は思っています。現場感覚のビビッドさよりも、論者の権威性を重視する上司に出会ってしまえばやむをえません。そして、それは学者も同じことです。
 でも、なんとかそれを進化させようと頑張ることが誠意だろうし、そこに考えを紡ぐ者としての存在意義があるような気がします。


 そんなわけで、2008年段階での結論めいたことに入っていきます。


 2001年段階のコンテンツ産業理論の基本は、自由市場主義におかれていました。それは90年代以降支配的な経済政策の流れに沿ったものです。その考え方は、成功報酬によって商品革新を維持し促進させようという、シュンペータ的なイノベーション思想に一つの根があります。そして、もう一つの根はパレート最適の理論におかれています。
 しかし、コンテンツという言葉で対象にしているものがパッケージメディアではなくネットワーク上に情報財の一種として存在しているものまで指していることから、話はややこしくなります。もちろん、こうした財についてパレート最適は単純には適用できません。
 そこで、イノベーション思想を根としてとりあえず自由市場主義をベースとしておきながら、そのものが情報財であることによる逸脱はこれを修正するように盛り込むというのが、政策の基本的思想でした。
 これは、2001年段階の政策の方向を強く意識していたことをもう一度確認しておきます。


 経済学での取引は、抽象的な売り手と買い手の間で、価格と数量の二つを同時に指定することを基本的世界観としています。いわゆるSD曲線の議論で、価格と数量の間に売り手側、買い手側、二つの関係が成立していることから、両者の連立方程式の解として着地点が定式化できるわけです。
 著作権という形でコンテンツを対象化することの合理性は、ここに帰着することができます。価格が決められる、そして契約によって公開量が決められる、ということが経済学的な議論にコンテンツの取扱を適合させるように見えるわけです。
 もちろん、ここには無理があります。というか、この無理をどう消化しようかというところから、議論は進化を始めるのですが、とりあえず、無理であってもこう考えることにしたのが2001年です。


 ところで、この教科書にも出てくるミクロ経済学の基本的世界観には、長い間様々な批判が寄せられてきました。僕がその中で重視しているのは二つです。一つは、取引コストを計算に入れていないというもの。もう一つは、現実の経済行為主体はそんなに単純で合理的な存在ではないというもの。この二つは全然レベルが違うことで、それぞれ個別に取り扱いますが、まぁこういう批判は以前からあったよな、と。
 まずは取引コストを計算に入れていないという議論を真正面から受けましょう。これだけで、著作権に対する態度が変わってしまいます。


 取引コストを最小化するということは、交渉コストを最小化するということを含みます。
 著作権の交渉は、実社会では二つの段階、レイヤーで起きます。一つは消費者と流通事業者の間で起きます。普通、この段階では価格を含む条件交渉はないことになっていて*2、消費者は買うか買わないかの選択を迫られます。その代わり、交渉コストはほぼゼロになります。もう一つの交渉は、流通事業者と権利者の間で起きます。ここでは、教科書通り、価格を含むあらゆる条件の交渉が行われます。
 そこで交渉コストを最小化するために、後者の交渉を包括的に行うべきだという考えが生まれます。もちろん、事前にあらゆる細かい取扱を決め込むことは不可能ですから、双方のリスクを最小化するための契約技術が導入されます。
 最も原始的なものが、買取*3、収益配分*4という二つと、その中間にあるMG+収益配分*5というものです。報酬分配にも定率型と定額型があります。これらを組合せながら、それぞれのパラメータをいろいろいじくって、関係者は合意を形成しようとするわけです。
 こう考えただけでも頭痛のするような煩雑さです。著作権法はコンテンツに関する他者利用の包括的許諾権、全面的支配権ですから部分的な利用毎にこうした交渉をすることもできます。できるのですが、それでは莫大な取引コストが発生します。だからこその包括契約なのです。
 著作権包括契約にどうせなるのであれば、そもそも著作権をそういうものだと規定してしまえばいいじゃないか。とまぁこう考えると、著作権は包括的支配権ではなく、コンテンツの利用から収益を得る金銭債権になります*6。これがいわゆる著作権の報酬請求権化というやつです*7


 ところが報酬請求権化というのは、市場経済にそぐわないわけです。というのも、それも含めてYes/Noを権利者が持つことが交渉の前提だからで、交渉なくして市場調整なし、ですから。
 そこで、著作権法を許諾権として規定しつつ、報酬請求権化が現実に起きるようなことを考えるわけです。
 政策担当者としてこの議論をすると、ここでかならず魔法の小槌のように飛び出すのが、経済学の合理性原理です。交渉コストが過大であれば、必ず主体は報酬請求権化すべく流通業者と交渉するはずである。逆に、そうでなければ、報酬請求権化する必要もない。だから、そもそも「報酬請求権化すべきかどうか」という問題立てがおかしくて、権利者に任せればよいのである、と。


 さて、それでよいのか?という疑問が起きます。


 いいわきゃないんだよ。
 で、次はこの問題が欠けている視点、つまり、供給側と需要側のそれぞれの事情を捉えながら、この「許諾権か、報酬請求権か」の議論をもう一度見直してみます。こんな抽象論が考えているほど、需要側ってやつはキレイに行動しないということが議論の出発点です。


 眠いから、今日はこれまで。





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*1:ありがとうございます

*2:経済学では取引に際して常に条件交渉は可能なはずですが、実際にはそうはなっていません。別に再販制の話を持ち出さなくても、TSUTAYAに行って3日間だけのレンタルでいいから、一週間レンタル料から値引きしろと交渉することを考えれば誰でも分かることです。

*3:流通事業者が一時金を権利者に支払うかわり、以後は無償で自由に自分と顧客は使っていい権利を得る。

*4:流通事業者は、契約で定めた単位に基づく利用を行うたびに、権利者に収入を分配することのを前提に、自由に自分と顧客は使っていい権利を得る

*5:流通業者は一時金の支払いと利用毎分配とを同時に約束する。この一時金は、しばしば一定量分の販売保証契約に基づく、その分だけの利用毎配分金前払いと捉えられる。これをMG(Minimum Guarantee;最小量保証金)という。ただし、利用毎配分額は単純な収益分配よりは安く設定され、一時金も単純な買取額よりは低く抑えられる

*6:これを一括で売り飛ばすと買取と同じになり、部分的に売り飛ばすとMG+収益配分になり、直接行使すると単純収益配分と同じです

*7:これの妥当性と実現可能性については後で論じます