著作権に関する結論めいたこと#2

 諸事あって、予定より遅れての第二回分アップです。歯を食いしばって前に行こうと思います。


 さて、1ヶ月と半分ほど前の第一回は、経済学的合理性原則に基づいて議論を組み立てていった結果、権利法だけを整備し、その上の権利処理は当事者の合意に任せることを政府は志向したということを説明しました。最後に僕が記したことは、供給側と需要側のそれぞれの事情が、この考え方と矛盾を来している、ということでした。
 そこから再スタートします。週一ペースくらいでアップしていきます。



#2 海賊版
 わかりやすいところからということで、需要側の事情からこの考え方を批判してみたいと思います。
 適正な著作権上の処理をしないで流通しているコンテンツを、総称して海賊版といいます。最近ではもっと丁寧な表現で、不正コピーとか、もっともっと正確に無許諾複製、ともいいますな。著作権法上こうした海賊版はその存在が保護されません。ここらへんはすごく気を付けて表現しているつもりなのですが、世の中ではこれはあってはならないと考えられています。本来は引換に金銭を頂くべきものが勝手に出回っているのですから、財産権の侵害ということで、そういう価値評価も理解できます。


 そこで、日本では管理を厳しくしようとか、摘発せいとかいう権利者もおります*1。先ほど表現に気を遣ったのはまさにここなのですが、管理や摘発はあくまで権利者の判断と責任、費用において行うのが原則です(だから著作権法は「禁止する」のではなくて、「保護しない」と書いたのです)。なぜなら、そういうことをむしろ喜ぶ権利者がいるかもしれないからです*2


 さて、コンテンツというのは情報財であることは言を待ちません。情報財ではこの管理コストが著しく高い。例えば、消費者、それもお金を払いたくないため何とかして監視の目を逃れてこっそり目的外使用をしようと思っている消費者を、それができないようにその一挙手一投足を監視するなんて、監視員をどれだけ雇えばよいのだがわかりません*3
 そこで、権利者側が法律論という幻想におぼれてどう思っていようが、現実のお金を頂戴するためには消費者が納得するような流通と価格で市場に提供するしかないということになるのです。供給しなくてもどこかから海賊流通は発生し*4、値段が高ければやはり海賊流通は発生します。


 余談ですが、これをグローバルな視点で見ると、貿易の一般原則に反して、各地域に於ける差別価格制度を積極的に認めるということになります。数年前に大きな問題になったCD輸入権は、これを真正面から認めたものです*5。映像コンテンツなら吹き替え、文字コンテンツなら翻訳という形で、少なくとも日本の場合言語を切り替えればそれほど格安価格で提供している市場からの環流は考えられません)が、音楽の場合はそもそも声を変えると別商品になってしまうので、こういう自助努力の防御法ができないからです*6。こうした枠内でしかビジネスが成立しないというのがコンテンツ産業の、おそらく、宿命だろうと思います。


 ただし、それはあくまで消費者から直接コンテンツの利用収益を回収するための原理です。「間接的な」収益回収方法はここでは視野の外ということになりますが、この点については、次の回で、「供給側の事情」を見た後にしましょう。


 それにしても、ようやく再開できて、少しホッとしました。
 前進することでしか生きていけない。無様でも、情けなくても。ツケは将来返すしかない。道は前にしか延びていかない。


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*1:摘発「せい」とは誰に言っているかやや不明ですが。

*2:最近、この管理費用の負担を嫌う産業界が、無許諾複製=違法複製の非親告罪化というのを持ち出しましたが、どうも頓挫したようです。その要求が論理的におかしい理由は、まさにこの部分にあります。

*3:本当か嘘か、僕は現場を見たことがないので何ともいえませんが、ネット上の肖像管理に厳しいと定評があるジャニーズ事務所の場合、一日中ネットを監視して写真とか、場合によっては似顔絵なども、見つけて削除要請をする取締部隊がいるといわれています。ホントかいな?

*4:後で記す国際的に商品価値があるコンテンツの場合、時間差で海外展開しようとしても、最初の市場でのリリースが録画され、海賊版のソースになります。ひどい場合は、スターウォーズエピソード3の時のように、製作段階から海賊版が流出することもあります。

*5:ここではCD輸入権の正統性を説明しましたが、実際の法制定過程では、様々な配慮を欠いたものになったことは、公平のためには書いておかなければならないでしょう。

*6:欧米の場合は海外の旧植民地が宗主国の言語を公用語としていることが多いからということもありますが、一般的に国際言語については、同じ言語圏に経済水準が著しく異なる市場があるのが一般的です。その場合、日本よりも悩みは深く、映像であれ何であれコンテンツには輸入権を付けようということになるでしょう。)。  ちなみに、こうした差別価格政策というのは世界的にはごく普通に行われていることです。日本でも、マンガ産業がこれをセオリー通り行って成功しました。米国のハリウッド、多分、アップルのスティージョブズにも共有されているでしょう。数年前、WindowsXPの廉価版を東南アジア限定で販売したマイクロソフト社も、同じ考えをもっているでしょう。これこそコンテンツビジネス思想のグローバルスタンダードなわけです。  こんな風に、お金をどのようにどれだけ支払うか、ということは、こと情報財に関してはこの管理の難しさ故に、圧倒的に消費者が支配的な部分なのです。そして、面白いことに、支払行動というのは一定の文脈に依存する物なのです。  こんなことがありました。小生がYouTubeのことも扱っているGoogleのある幹部と会った際、一つのことで意見が全く一致したのです。少なくとも映像の、配信ビジネスに関して、一本いくらという値付けは成立しない、と。そして、ギリギリがペイチャンネルだということも。  こういうと、TSUTAYAがあるじゃないかというのですが、TSUTAYAは向学上の整理ではコンテンツのレンタルをしているのですが、私たちの日常感覚としてはあくまでDVDのような「メディア」という「物財」を貸しているわけです。情報にはお金を払いにくいが、ブツなら金を払うというのは、よくある私たちの消費習慣ではないでしょうか((僕はこれを「パッケージメディアフェティシズム」と呼んでいます。これは情報がいくらでも増えるのに、ブツは質量保存の法則故増えないということ(僕はこれを「ポケットの中のビスケット原則」と呼びます)が、私たちの骨の髄までしみこんでいるからだと考えています。