ネット権についてのいくつかの付言

MIAUのアンケート結果が消費者の勝手な言い分だという天秤の館は、同時に、「デジタル・コンテンツ法有識者フォーラム」(以下、フォーラム)が提案したネット権についても、メディア事業者の勝手な言い分だと断じておきたい。

ネット権については様々な批判が行われており、委員の一人である岩倉弁護士から様々なところに「反対意見への回答」も配布されているようなので、権利の上に権利作ると法制度上混乱するとか、ベルヌ条約違反じゃないかとか、ちまちましたことはいわない。二次利用の開放とか、自分の意見とも合致するところもあり、積極的に評価する部分も少なくない。
ただ、二つだけ明かな問題点を指摘しておきたい。

一つ。ネット権を持つ事業者は制作者への正当な対価の支払い義務を負うと言うが、これは欺瞞である。最初から利用する権を付与された事業者と、利用される定めを負わされた制作者の間に、「正当な対価」など設定され得ない。両者の間で取り決められる対価が「正当である」ためには、第一義的には少なくとも法的に、できれば事実上も全く対等な関係の上で両者が交渉できるという事実か、さもなければ公正な第三者のレフェリーが要るだろう。これはメディア事業者とコンテンツ事業者のバランスの観点から問題にされる。

二つ。そもそもネット権を付与される対象が特定メディア事業者に限られる理由は不明である。本来、そうした権利は非ネットの全てのメディア事業者に許されるべきであるし、選択するというなら少なくとも一定の基準を法定した上で、それを満たす全てのメディア事業者に認めるべきである。これはメディア事業者相互のバランスの観点からの指摘だが、そもそもメディア事業者を特別扱いする必要はないという観点に立てば、法定された基準を満たすすべての者にネット権を認めるべきだと言ってもよいかもしれない。
このネット権の付与という問題に、経済的視点だけではなくジャーナリズム的な視点も加えるなら、表現の自由の担保は可能かという問題も付け加えてよいだろう。表現の産業の中でも唯一事実上の許認可制*1にかかる放送局についてしばしば問題にされるように、政府批判も報道の自由、ひいては表現の自由として確保されなくてはならない。この上、放送局以外のメディア事業者にまで政府の特許が事業構造の重要な一部を為すような構造を作ることが果たして是か非か。これについては、ジャーナリズム論の碩学の意見をお聞きしたいものだ。

いずれにせよ、このネット権は非ネット系のメディア事業者による「俺を信じろ、俺に任せろ」という主張に過ぎず、天秤の館としては、極めて勝手な言い分だと断じておきたい。しかし、天秤の館は、ただ批判だけすることを好まない。それに、ネット権には小生の持論に近い内容も多いので、シンパシーを感じる。そこでネット権をよりよくする修正案を考えてみようと思う。
結論は、こうだ。

  1. 法定した一定の基準を満たした事業者には、ネット権を付与する。許可制でかまわないが、その場合、基準を満たした申請者に対しては、ネット権を付与しなくてはならないと義務づける。
  2. 法定基準は、これまでの事業実績を要求せず広く付与することとし、違反行為による資格剥奪はこれを強化する。
  3. ネット権には、国が認めた第三者機関が定めた一定基準以上の収益*2配分義務が課される。この基準を国が認めることも可能だが、それはちょっと置いておく。*3
  4. ネット権有資格事業者は、非ネットメディアでのパブリッシュによって当該コンテンツのネット権を獲得する他、コンテンツの著作権者との契約によってもネット権を獲得することができる。つまり、ネット権は排他的権利ではないということにする。もちろん、ネット権有資格事業者が非ネットメディアでのパブリッシュの条件としてネット権を自分以外に付与しないことを著作権者に求める契約は無効とする。

もしこうなら、天秤の館は任意登録型規制ではないネット権型の制度設計に反対しないつもりだ。

ただ、敢えて一言。コンテンツという情報財を管理するのは簡単ではなく、それゆえ交渉と許諾というスキームは極めて部分的にしか機能しない。そのスキームの上で、どうやってネット上での利用をなるべく広くコンテンツ制作者に金銭報酬として返すのか、そこは問題である。
私が「テレビ進化論」(買ってください)で公表した「商用デジタルコンテンツ振興法ver2.0」とフォーラムのネット権の間には、そもそも根本的な設計思想の違いがある。それは、境版二階建て案が権利者の任意登録であるのに対し、フォーラム版ネット権案では、特許を得たメディア事業者には、事実の発生により法的権利が強制的に付与されることである。そこに起因して、境版二階建て案には法に基づいた利益付与のスキームが含まれるが、フォーラム版ネット権案ではそれは許諾によって収益を行うメディア事業者のパフォーマンスに任されるという違いが生まれる。
必ず使われたら収益が入るが許諾のゲームは事実上できない制度と、許諾を出す出さないというゲームはできるがそれを実際に行使できるかどうか疑問な制度と、どっちがよいのだろうか。

情報財の管理が不全だというのは、消費者は実質無料でそのデータを使えるのでよいことではないか、という意見もあるかもしれない。しかし、繰り返すが、それは産業としてのコンテンツの創造と利用のサイクルを毀損するもので、消費者のフリーライド礼賛は天秤の館が頓首できるものではない。
天秤の館は、生産者全体と消費者のバランスも考えながら、何が「よい」のかを考えている。



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*1:放送法には許認可規定はないが、放送事業の前提としては電波の帯域利用許可が必要である。電波法によって行われているこの許可が、事実上、放送法上の放送事業の許諾となる。

*2:もちろん配分ベースは総収益であり、総利益ではない。利益ベースなんてしたら、メディア事業者が勝手に費用をずんどこ載せちゃうでしょ。バカ高い人件費なんててんこ盛りにされた日には、バランス主義者は涙目ですわな。

*3:とかなんとかいって、私の独自理論では、こういう場合、50:50で分配するのが基本線と考えていることは付け足しておこう。