Apple vs Psyster 〜著作権問題から著作権ライセンス問題へ

海の向こうでなかなか香ばしい訴訟合戦を続けているPsysterとAppleなのだが、PsysterがAppleは自身の著作権を濫用しているという法理を展開しているらしい。んで、裁判所が「まぁ話聞いたるから、裁判続けぇや」といったということである。
これは、今ではなく、もう少し先に日本でも論じられるテーマかもしれない。
今、日本では、著作権の直接適用主義*1から著作権のライセンス主義への過渡期にある。最近、中山信弘センセイまで言い出し始めた「二階建て」も、一面ではライセンス主義の延長にある*2
日本では、そうした段階だからライセンス契約の自由はむしろものすごく広く捉えられ、その権原である著作権の効力は強く捉えられている。ライセンス契約自体が別の法理上の制限を受けるのではないか、という視点は、もちろん公取などはいろいろな検討をしているのだが、比較的薄い。なにせ知的財産ブームの熱冷めやらぬ今日この頃であるから、世の理解はそこまでいってないということかもしれない。
これは、いつか来るだろう*3明日のために、今から議論しておくべきことだと天秤は思う。
余談だが、これに対して、「利用者の権利」が論じられていることを挙げて反論する向きもあるだろうが、「利用者の権利」論そのものはあまり意味がないことなので、ここでは取り上げないでおく*4





.

*1:つまり、電話で「あれやっていい?」「うん、いいよ」ということを繰り返すということである。だからその対象は業界内に限られていたし、一般消費者が複製をすることは限界的事例としてしか考えられていなかったから、当時はそれでよかった。今、それでよくないことは周知の通りだが。

*2:著作権に関する「二階建て」法制の一つの解釈は、法定ライセンス制度という考え方だから。なお、著作権法系とは別の規範体系を創造し、それを一般の著作権と選択的なものとし、ただデフォルトを著作権においているだけだという考え方もある。

*3:多分、すぐに来る。

*4:これは、なにも「利用者の権利」論が暴論だとか、間違っているというのではない。ただ、「利用者の権利」という片方の視点では、制度論は動かせないだろうと言っているのだ。というのも、制度は中立である、という、少なくとも、タテマエはある。知財法制も、別にどこかの企業を裕福にするためではなく、いちおうは知的生産活動を促進するという大義名分がある。需要と供給の相関関係が世の産業活動を動かすのだが、その観点から見てよりよくなるという証明が要るのだ。そして、それによって利用者の要望の側に制度が動いたとしても、論理的には、それはけして「利用者の権利」を擁護したということにはならない。そんなわけで、「利用者の権利」という考え方は社会運動をするためのカンバンにすぎず、本当に大事なことは、それによってどれだけ世の中の知的生産活動がより盛んになり、より洗練されるかということを、利用者側が証明してみせると言うことなのだ。