コンテンツ産業とひとくくりにしてはいけないこと

mhattaさんというか、いわゆる八田さんが「アーティストのビジネスモデル」というコラムを書いていらっしゃる。なかなか含蓄が深いのでご一読あれ。

ただ、そこで指摘されていること自体は、コンテンツ産業の現場では周知のことである。小規模なファンコミュニティを構築して安定的なビジネスを作り、そしていつの日か大ヒットを目指す。この「大ヒットを目指す」というのはあってもなくてもいいのであって、少なくともアーティストのインセンティブ、モチベーションということなら、それが金銭的な大ボーナスを意味しなくても、有名になりさえすればよいというのかもしれない。こうした考え方は、特にシンガーソングライターの世界ではむしろ、経営の王道でもある。

レコード産業*1の構造調整は90年代後半から10年弱続いた。その間に、市場規模は前世紀の約6割ほどにまで収縮した*2。iTunesStoreが有料配信の道を開いたが、それはその市場収縮をせいぜいが緩和したくらいの効果しかなかったわけで、配信がレコードの減収分を穴埋めしたとはいいがたい。JVCがレコード事業を売却するのではないかという報道もあったが、まぁそうだろう。
しかし、「レコード産業」のこの壊滅的打撃は、「音楽産業」の崩壊ではなかった。ライブを核とした生き残り戦略は、確かに音楽産業を救っている。
言い方を変えると、コンテンツ産業が崩壊しても、音楽産業というか、音楽文化は死なないのである。

けれど、「映画」を代表とする映像産業はそうはいかない。
音楽産業においてライブがレコードを代替した*3ような、リアルのサービスとして映像を代替する物がないからだ。リアルにドラマを演じてそれを放送していたシャボン玉ホリデーの時代のようなドラマ作りは、今、どこでもしてはいない。映画「電車男」と舞台「電車男」は、もはや全く同等ではありえない。
こうなると、音楽は生き残ったじゃないか、なーんて無邪気なことをいう人の気が知れない。

つまり、産業のことや、デジタルインパクトを語る際に、「コンテンツ産業」なーんて一言で括ってしまってはいけないということだ。

それは、関係者(特に政財官界の外部者)が特に気をつけておかなければならないように、部外者である天秤は思うのだ。





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*1:アナログファンには悪いけど、一緒くたにCDも含みます。

*2:これはレコ協調べなので、いわゆるインディーズを含んでいないことは留保しておく必要がある。

*3:文脈上こうなっているけど、もちろん、本質は逆で、レコードがライブの代替物なのである。