ビジネスモデル論ー論(その1)

 こないだ、twitterで「ビジネスモデルは価値多元主義的世界観と価値一元主義的世界観を繋ぐ」と言ったら、東浩紀大先生をはじめとしてちょろり反応があったので、これについて書いておきたくてブログ更新。ただ、1回で終わらなかったので、2,3回書きます。


■価値多元主義的世界観と価値一元主義的世界観とは
 私がここで「価値多元主義的世界観」、「価値一元主義的世界観」と呼んでいるのは、世の中の動きについてこれを分析するときの「態度」なのです。
 「価値多元主義的世界観」とは、個々の人々はそれぞれの満足を追求しているということは認めた上で、その満足は個々人の多様な価値観に依っていて、それは様々な方法でも複数の価値にしか取りまとめられないという考え方です。逆に、「価値一元主義的世界観」とは、個々の人々の満足は結局たった一つの量的な指標に還元できるという考え方です。
 両者の違いは、究極的には、個々人の満足を一つの量的な指標、つまり一つの質、言い換えれば一つの価値観に写像として落とせるか、変換できるかということになります。そして、あくまで実学としてこれを見ると、その写像、あるいは変換が、我々の行為にあわせて適切な時間関係で計算しうるのか、ということになります。
 これには今のところ満足のいく答は出ていないと思うので、どちらを採るかは論者の姿勢の問題だと思っているのです。だからこそ、どちらも「世界観」であり、態度の問題だと言ったわけです。
 余談ですが、世の中を望ましい方法へ動かしていく、つまり「政策」を仕事の対象としている私としては、これは自分の日常に跳ね返ってきます。すなわち、前者の視点に立てば、多元的な手法をシステマティックに講ずるべきだという態度になります。文化産業政策などの場合、文化的手法と産業的手法を同時に、かつ効果において有機的に連携するよう十分設計して行うべきだということになるわけです。また、文化産業政策のそもそもの目的についても、文化的には云々、産業面では云々と二元的説明をすることになるでしょう。逆に後者の態度を採れば、全ての手法は一元的に説明でき、言い換えれば一元的な政策で実現は可能になります。文化産業政策の場合、全てを規制緩和と市場における資金調達環境の改善といった金融政策に還元してしまったり、或いは全てを文化に触れる公共的機会の増強のような文化政策に還元することになります。また、その説明も、およそ国民の幸せは生活の文化価値にあると言い切ってみたり、あるいはGDPさえ増えれば国家の目標は達成できると断言するところから始めることができます。


■経済学の立ち位置
 この中で、基本的に経済学、特に古典的な経済学(ゲーム理論とかが入る前ってことですかね)は「価値一元主義的世界観」に立っているように思えます。その嚆矢がマルクスだと私は思っています。というのも、彼は交換論の中で出てくる「使用価値」(当事者が、それによってどれだけの満足を得るかと読んでいるところの価値)はてんでおかまいなしで、「交換価値」(交換の連鎖によって、それが市場で評価されるところの価値)のみ(正確には、これと生産過程で投下された様々な価値の構成物としての商品の価値との二つだけ)を認めているように思うからです。
 この「交換価値」の表章である「貨幣(量)」を軸として、それにまつわる様々な主観的評価はあたかも幻想のように捨象するところに、まさに「価値一元主義的世界観」を見ることができます。
 でも、なぜこうなるのか。
 一つは、経済学がそもそも持っている思想基軸の問題としてそうだったのではないか、と。そもそも古典派経済学は市場に於ける交換分析から議論が始まっており、そこでは暗黙のうちに交換の片方には貨幣が存在していました*1。本来、交換の両方に貨幣以外の財が置かれている、物々交換的市場でもよいはずなのに。これは経済学がある種の「均衡状態」を論じているからで、その前提として交換に「大数の法則」を適用しているがため、一つ一つの交換に一期一会性が強い物々交換的取引は対象とできなかったからだと思います。そうこうするうちに、経済学は貨幣一元主義を採用せざるを得なかった。だから、あくまで学問としては価値一元主義的な議論をしていますが、人間としては、貨幣量に還元できない世の中の運動構造を十分理解し、認めているのではないか、とも思うときがあります。
 今ひとつは、貨幣への想いは強く、貨幣を得るためにいろんなものを商品化していく動きが進めば進むほど、結局のところ貨幣一元主義に現実の問題として動いていく、という読みがあるのかもしれません。マルクスは、人間は、まさに貨幣について自己疎外を起こし、自らホモ・エコノミクスに堕ちていくと言いたいのかもしれません。
 私はマルクス個人の研究者でないことはもちろん、経済学者の人間研究をやっている者ではないので、経済学の価値一元主義的世界観がどちらに由来するのか、あるいはどれでもないのかはよくわかりません。ですが、経済学が本源的には「貨幣の学問」であり*2、それが本流を為しているというのは、その応用範囲が広がって、様々な非貨幣的現象にまで説明範囲が広がった今でもそうなのではないでしょうか。


■ビジネスモデル論
 これに対して、ある一連の過程を内包した一つのビジネスの中で、どういうタイプの交換と加工の連鎖で資本を増加させているかということを分析するのがビジネスモデル論だと私は考えています。これは国領先生の「四つの課題に対するビジネスの設計思想」(wikipedia"ビジネスモデル"の項を参照)と近いかもしれません。
 ここで大事なことは、ビジネスモデルを構成する一つ一つの交換は、必ずしもマルクスが想定したような貨幣量の最大化を互いに追求する過程としての交換にはなっていないということです。むしろ、現実には、個々人はありうべき「交換価値」を頭において交換に参加するのではなく、「主観的価値」を右辺において左辺の貨幣を払っている。つまり、ここでは価値多元主義的世界観が基礎に置かれている。
 ところが、ビジネスはある種の資本増加過程になっている。つまり、世界が資本量を増やすことを自己目的とした活動をしている、という価値一元主義的世界観にびったりはまっているわけです。
 面白いことに、価値多元主義的なあり方が、価値一元主義と結びついている。しかも、この両者の結合が、ビジネスとしては極めて効率よく儲かるのです。
 というのも、これは悪いいい方をするとある種の「詐欺的取引」であり、「幻想価値の売買」ですから。売上高利益率は、分母である原価が相対的に小さいので、畢竟、これが大きくなります。つまり、収益性(価値一元主義的世界観における合理性)を追求したいのであれば、人々を価値分散状態に置いておけということになります。他方で、実態として社会は価値一元主義に堕ちていくという考え方に反します。いやぁ、こうなってくれた方が貨幣で獲得できるものは多くなるので、本来、価値一元主義的世界観にとってはこれが合理的なはずなのですがね。
 その結果、ビジネスモデル論から見ると、価値多元主義的世界観は貨幣の価値一元主義的世界観に至る過程ではなく、それと奇妙な均衡を目指しうる関係にあるということが言えそうです。
 これが、twitterでつぶやいた「ビジネスモデルは価値多元主義的世界観と価値一元主義的世界観を繋ぐ」ということの意味です。



 というわけで、第一回はここまで。
 また、2,3日したら第二回書きます。



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*1:だから古典経済学は「価格理論」なわけですね。

*2:これを実感したのは、たしか今やハーバード・ビジネススクールの若き准教授になってしまった(らしい)ハギウ君と話している時だったとおもいます。私が「非貨幣的経済」と言う意味でNon-Monetary Economyと言っていたら、彼は首をかしげ、その表現はナンセンスだというのです。というのも、経済はそもそもMoneyの学問だからだ、と。逆に、その時、私はこの問題に初めて気がついたということです。いやぁ、まさに浅学。