「一般意志2.0」読後

 年末から読んでいた「一般意志2.0」をようやく読み終えて、書評ならぬ、読後感想を書く気になった。
 さて、ネット界ではけっこう読まれているような本書だが、霞ヶ関内でも密かに読まれているのではないだろうか、と思う。だが、小生もある席で「グーグルが政治決定をするという間違った内容」と評されているのを聞いたように、その内容が的確に理解されていない場合も多いのだろうと思っている。


■小生の読み方
 小生の読む限り、本書の主張は極めてシンプルである。全体は<分析>と<提案>に分けられると思うが、まず<分析>の主眼は①(ルソーの言う)「一般意思」とは社会の「無意識」のようなものであって、言語によって練られた意志決定の結果というより、個々の情念の総合化のようなものであること、②その「一般意思」は情報技術により可視化できる(一般意志2.0)のではないか、ということである。そのシンプルな主張を、東(以下、敬称略。すんません)は何度も、様々な既存の議論を引きながら変奏曲のように繰り返していく。
 次いで<提案>は、従来型の「選良」による熟議的プロセス(統治1.0)の価値を認めつつ、①統治1.0の各過程をリアルタイムに情報公開させること、②情報公開から生じた一般意志2.0を統治1.0の議論過程にリアルタイムに伝えることで、統治(1.0)と一般意志(2.0)をダイナミックにコミュニケートさせることで「統治2.0」を実現し、それにより民主主義そのもののあり方を民主主義2.0に進化させられるのではないか、としている。と思う。


■なぜ誤読が多いのだろう?
 正直に言って、この通りで大きな間違いがないのであれば、あまり誤読を惹起する点は、本書には見当たらないと小生には思われる。
 しかし、Twitterを見る限り、誤解や誤読は後を絶たない。東はその誤読について自覚的であって、想定される反論に対して、説明を重ねていく*1。ここにおいて、東の議論は面白いほどぶれていないし、むしろわかりやすくすらある。
 それでも「誤読」が多いのは、東の切り込み方がはっきりしすぎているからというのと、いくつかの刺激的な固有名詞を使っているからだろう。彼が前提としている世界観は我々には当たり前すぎて、そこで持ち出す固有名詞も我々にはなじみがありすぎて、それだけに、それを用いて政治論に切り込まれるとドキッとするだけだ。むしろそれは、本来もっと早く起きるはずだった議論を看過していたことに自分で気づいてしまうからかもしれない。いずれにせよ、切り込まれた側の方が脊髄反射してしまっているように思える。そういう意味では、本書から誤読が生まれやすいとしても、それは東本人のせいではないような気がする。*2


■統治2.0の現状と系譜について
 さて、そんなことはさておき、自分に関心があるのは「統治2.0」の方である。東自身がこの書物は今進んでいる様々な事象に基づいて書いていることを認めているのだが、これを別の側面から言えば、実際に政府の現場でもこうした動きはまさに進んでいるのである。
 多くの審議会や研究会でニコ生などによる公開は進んでいるし、いわゆるtsudaる行為を禁止している審議会はそう多くない。すでに経済産業省商務情報政策局長の正式な研究会がまさにニコ生を舞台に行われている(小生自身が参加したニコ生「経産省新時代IT政策尖端研究会」)。
 そもそもこうした動きは今に始まったことではなく、90年代後半に相次いで各省に導入された「政策評価広報課」というセクション設計にもその断片が見て取れる。これは当時の通商産業省で最初に導入されたものだが、いかにも奇妙なネーミングである。だが、このネーミングに実は狙いが隠されている。
 小生も若干議論に与ったところがあるが、この奇妙な名前の基礎には、政策評価の基礎は社会的評価であり、それは広報に対するほぼリアルタイムの社会的反応(当時の状況では、ニュース番組や情報バラエティなどの場を使い、マスメディアを介したものを想定していたのだが)で決まるから、政策評価=<社会→政府>の情報流と、広報=<政府→社会>の情報流は一組のものであるという思想があった。そのため、従来の「広報課」は、所詮記者クラブの世話しかしてないだろうと言わんばかりに「報道室」に格下げになってしまったほどだ。不幸にして、その後、政策評価の中心は政策評価審議会(現・政策評価懇談会・研究会)に移ってしまい、当初の設計思想が今どの程度残っているかはアレなところだが、しかし、こういう「会話的政策決定」とでもいうアイデアはけっこう古くからあったような気がする*3


■統治2.0論と代議制民主主義
 さて、東が提案する統治2.0について論評する際、なかなか難しいのは、おそらく、その視点は自身の置かれているポジションで大きく異なるだろうということだ。一般市民にとっては政治参加の形態論だろうし、その意味も選挙権を持っている人と、選挙権を持たない人では大きく変わってくるだろう。そして政治家や、ジャーナリストとなるとまた違う。
 その中で、自分は政府の現場にいるので、まさに統治1.0を担っている者として、この提案をどう受け止めるのか、といった見方をせざるを得ない。
 まず、「選民」民主主義*4という東の指摘は極めて真っ当で、奇異感はない。「選良」の代表とされる代議制民主主義について、政治学、中でも憲法論的な意味でのそれは、統治のコスト論という制限の中で、直接民主主義と間接民主主義という二つの理想、二つの悪夢の間で揺れ動いている。しかしながら、我が国では一般的に憲法の議論、特に統治編の議論は既存の政治に対する配慮からか論じられる傾向が少なく、それゆえ、今現在起きている事象を議論に導入する動きが弱い。敢えて言うと、選挙活動へのネット利用の是非くらいのものだろうか。そんな中で近年の情報技術を上手く使って低コストでオープンなコミュニケーションを統治1.0の接合面で誘発するアイデアは合理的であると同時に時宜を得たものであって、その提案自体を歓迎したい。
 東はいわゆる憲法論や憲法論ベースの政治学の専門家ではない。だが、情報社会学の専門家の一人として政治論に対して対して果敢になされたこの提案について、憲法統治編の議論が今後無自覚であってはならないのではないだろうか。
 ただ気になることもある。
 まず、前置きとして、統治2.0と民主主義2.0この中で、まさに「社会」と政治決定の間を調停する役目を負わされていた「議員」のあり方は大いに変わる。そもそも「代議員」は、「間接民主制」主義からは大衆の要請を上手く止揚して合理的な決定を導く「選良」であることを期待されつつ、「直接民主制」主義からは統治コストの問題ゆえにやむなく措定されたという、両者の妥協の産物という側面がある。
 一般意志と統治の間に新しいI/Fが措定された以上、例えば監視の中で議論する「選良」は案件毎に当該案件の専門家であればよい、という読み方もまた可能ではないか。言い換えれば、「選良」は必要であるが、それが「代議員」である必要はない、とも読めるし、そういう思考実験もまた可能だと思う。もちろん、統治の「正当性の契機」という議論において、「代議員」を廃することは無理だろうとも思うのではあるが。
 そして、東はあくまで一般意志2.0を、政治決定がそれに従う対象ではなく、むしろそれを自覚して決定を行うレファレンスとすることを*5前提に統治1.0をより高めるための装置として採用することを唱えているのだが、「選挙で勝つ」方法としてこれを曲解する政治家は必ず出るだろう。仮に一般意思2.0に従うことをナチスよろしく自らの政権の「目的」とするなら、その基本的性質故に、個別論では相互に矛盾をきたし、おそらくそれに従う具体的政策体系そのものが不能解であろうとは思うのだが。
 敢えて言うなら、こうした間違った選択をどう抑止するのか、という点についてははっきり書き切れていない気もする。


■統治2.0と民主主義官僚制
 一般意志2.0の登場によって、様々な局面で、代議員の頭越しに具体的な政策現場、特に審議会その他の準意志決定機関と一般社会が直接にコミュニケートする場面が増える。そして、こういう接合面が膨らめば膨らむほど、そこで専門的な議論を行う「選良」の役割が皮肉なことに強まるだろう。東の想像力はそこまで及んでいる。
 だがしかし、実際に統治1.0の現場に居る者としては、そこでこの「選良」の議論の場をプロデュースする官僚機構の挙動は統治2.0の対象として充分に対象化されてないように感じることが歯がゆい。
 現時点において、準意志決定機関の委員選定とアジェンダ設定は官僚機構の手にまかされている。したがって、如何に準意志決定機関を統治2.0のシステムに組み込むとしても、そこで委員の自由度は充分に働かないのではないか、とも懸念するのだ。
 では、官僚機構の内部におけるあらゆる議論を統治2.0のしくみに委ねればいいのか?小生自身の感想を言えば、それは無理そうである。もちろん、官僚機構内の重要な会議について統治2.0のしくみを導入することは出来るだろう。しかし、それが適切ではないアジェンダもあり、全てにおいて公開をというのは無理がある。そして、おそらく一般意志2.0をあざ笑うように恣意的になされる決定は、そうした非公開が認められた場所に遷移していくのである。
 小生は、官僚機構が自らに対する評価を第三者がすることを喜んで受け入れた例を見たことがない。
 そういう意味では、役所流に言えば、タマは「選良」の側に投げられているのだ。一般意志2.0に対して「選良」の端くれとして、或いは(もし自分は「選良」なんかじゃないと自任するなら)「選良」を支えるものとして、どれだけ誠実たれるか、「選良」と直接「選良」を支える者の側に、どう答えるかと東は問うているのである。
 もちろん、「選良」を支える者として、小生もその問いの対象になっていると自覚している。


■最後に
 東の議論は粗い。というのは簡単である。彼自身が「本書はエッセイである」とする中で認めているようにも思う。しかし、東の指摘は意義深い、と、少なくとも小生は思っている。
 国会や官僚機構の現場において、東の議論は無視されるかもしれない。いや、それ以上に、東を賞賛しながら現実には背を向ける行動をする者も少なくないだろう。
 佐々木俊尚さんの言ではないが、東浩紀はネットの中、本のむこうに留まっている人物ではない。もっとフロントに出てくるべき人物である。だが、同時に、それだけにつらい思いをすること*6もあろうかとは思う(充分タフになっているので、心配しているわけではないのだが)。だが、それらを乗り越えながら、果敢な言論を期待するものである。
 そして、長々書いてきたのは結局これを言うためだったのだけど、一言で言うなら「面白かった。今、読むべき本を読めたと思う。ありがとう」ということなのだ。




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*1:ちょっとこの言い方は奇異かもしれない。だが、小生にはそう思える。というのも、誤解を恐れずに言うなら、この<想定問答>で彼の議論はダイナミックに発展しているわけではないように思えるからだ。東の回答は、東が当初から予定していたものであり、当初から語っていたことと何ら矛盾してはいない。いや、むしろ予想される通りのものだ。つまり、彼は語りたい答を最初から頭に描いて本稿を書いていたことになり、言い換えれば「想定された問い」は彼の<分析><提案>に対するビーンボールであるからだ。東はそれをトリガーとして利用しながら、また同じ事(或いはその延長)を別の言い方で語っていくのみである。

*2:もちろん、そもそも文体から言葉の選び方から著者の責任であるので、東の責任でないというのは言い過ぎだ、という指摘もあるとは思う。だが、小生は、明かなミスリードがない限り、誤読の責任は、書き手と読み手の双方にあると思っているのだ。

*3:しばしばマスコミにこれから仕掛ける政策をリークしてその反応を見る、というようなこともその一環であろう。

*4:「選良」には、抽象的に「選ばれた者」「知見者」「エリート」と読む説と、「選挙で選ばれた代議員」と読む説とがある。東は前者を採用しているのではないか、と小生は読んでいる。

*5:本当はもう少しダイナミックに捉えているので、これ以上の含意が東にはあると思うが。

*6:例えば、ネット界の論者として若手では双璧とも言える津田大介氏は、文化審議会著作権部会の委員になった時に経験した様々な経験が、今の政治的にアクティブな生き方に良くも悪くも影響していると小生は思っている。