大河ドラマ「平清盛」を駄作と認定します。

■まずはお疲れさま。
 23日、大河ドラマ平清盛」が終了しました。まずはお疲れさまではあります。
 一年の連続ドラマを作り上げるというのはそれだけでも大変な苦労で、スタッフの急遽変更もなく*1、最後まで走りきったことには評価をしたいと思います。一年間、毎週見せていただき、ありがとうございました。
 けれども、敢えて言わせていただきますが、今回の「平清盛」は駄作です。



■「平清盛」の時代
 「平清盛」は平安末期、武家の時代の始まりの頃です。
 この頃、日本各地は農耕化が進み、商品経済の段階にゆるゆる入っていきます。ところが、中央では律令制に基づく地方経営が蔑ろにされ、中央貴族自らが地方に律令支配に服さない私領地域=荘園を設定することに腐心します。中央から派遣される各国経営責任者である国司も地方経営するための資源が律令制から供給されないため、荘園の在地支配者と連携し、律令制を基盤としつつ荘園制を補完的に混合した不思議な秩序が作られています。
 そんな泥臭い地方経営に自ら携わることを好まない中央貴族は、代理人を派遣して自分は中央に留まり上納金だけを数えるやり方を選んだり、そもそも下級貴族を充てるようなやり方で地方から遊離していきます。この高級貴族の代理人や下級貴族として充てられたのが、中央の武家貴族ということになります。
 だから、「平清盛」で描かれた平家*2も、源氏もこの武家貴族*3です。
 次の時代、鎌倉時代は、律令制と荘園制の均衡はひっくり返り、荘園制を基盤として律令制を補完的に混合した秩序へと移行していきます。そのために、荘園制を支える中央政府が必要だったわけで、これが鎌倉幕府ということになります。



■清盛の選択
 「武士の世」が何なのか、ということは本作品のメインテーマの一つです。これを歴史から逆算すると、律令制中央政府武家が乗っ取るという選択をした清盛と、律令制中央政府に対峙する荘園制中央政府を作る選択をした頼朝との対立ということになります。本作品が最終的に両者の交代劇を描く以上、ここは避けて通れないテーマです。
 清盛率いる平家がこの地方経営に携わっていたことは、本作の中でもいろいろ言及されていたところです。実際に地方経営に関わるシーンは太宰大弐になったところとかいろいろありますが、彼自身はあまり地方には赴いてはいません。清盛は、史実から見ても、地方経営に自ら携わったことはあまりないようです。
 考えてみれば、中央の武家貴族はその意味では宙ぶらりんな存在です。武士は動員して恩賞を与える側=主君と動員に応じて参戦し恩賞をもらう側=郎党に別れ、これが固定化して「武士団」を形成するわけですが、各地で大規模な戦が起きると武士団を動員する主君が現れて大規模化階層化し、そのトップに君臨したのが武家の棟梁、ということになります。でも、結局はさらに高位の権力者に自分の束ねる武士たちの荘園経営受託を認めさせないといけないわけで、これが王家の犬とも呼ばれることの裏導線なわけですね。
 荘園経営の依頼者になるには地位が低く、荘園経営の受託者になるには地位が高すぎる。だからこそ、清盛はその武家の棟梁の力、すでに力を失った律令制軍制に変わって国家の武力を独占するその力を使って、自らがその高位につこうというわけです。



■清盛以外の選択
 しかし、武家の棟梁がその地位を確実なものにする方策として、清盛の選択が唯一の選択肢というわけではありません。それは史実が証明しています。
 源義朝の選択は、自分自身が地方に出向いて、在地の下級地主たちを束ねるというものでした。中央の目線から見れば格落ちになるのですが、血脈的に中央に繋がり、きちんと部下たちに成り代わって荘園経営を認めさせることができればそんなもんどうでもいいという考え方ですね。
 源義朝は、確かに中央での政争に敗れたせいではあるのですが、関東に赴いて在地の武士たち*4を中央貴族の威光もあってまとめることに成功します。まあ実際には暴れん坊の息子=鎌倉悪源太と一緒に在地のいろんなもめ事に介入し、暴れては勝って秩序を形成していく、という、今で言えば暴力団まがいのやり方をするわけですが、いずれにせよこれは義朝の力となり、平治の乱の際に動員された武力に地方武士団が多かったことはこれを示しています。
 息子の頼朝も、源平の争乱後、鎌倉幕府をあくまで地方政権として樹立し、けして京に移すことはしませんでした。これは平氏政権の顛末を理解していたからだと思いますが、もう一つの選択肢として、けして京に上らない最強の地方政権を目指した先例があったからという見方もできます。
 それが「第三の勢力」、奥州藤原氏です。
 奥州藤原氏は、その出自や確立の物語自体がとても面白い*5のですがそれはさておくと、蝦夷と蔑まれた辺境民*6政権なので、中央を牛耳るとか考えられない状態にありました。おまけに、京から遠い。そこで、どうも勝手に武家政権的なものを作っていたようです。
 平家は、しぶとく勃興する頼朝に対してこの奥州藤原氏を当てて牽制します。当主・藤原秀衡鎮守府将軍陸奥国司に任じたり、源義経を預けたりするのはこういう流れの中で起きた現象です。



■「平清盛」の時代の描き方について
 さて、問題は、大河ドラマ平清盛」がその時代をきちんと描けていたか、です。
 確認しておくと「平清盛」の最終地点は平家滅亡であり、そこまでを描ききることが目標です。すると、平家を滅亡させる源義朝・頼朝の力の源を本作品は描く必要があった。そして、できればその遠因であり当時の重要軍事勢力である奥州藤原氏のこともキチンと描く必要があった。
 しかし、実際はそれはほぼ等閑視されたと筆者は思っています。
 義朝の描写は、東に下り、一生懸命頑張ってました、はい東国のリーダーとして帰ってきて親父を倒しました、で終わり。鎌倉悪源太の物語など、後の鎌倉時代に繋がるいろいろ面白い東国の事件は一切無視。九州から駆けつける平治の乱の主役の一人である鎮西八郎為朝も、乱後、伊豆大島流罪になるものの、今度は大島を支配する領主のようになって反乱を起こすなど面白い話があるのですが、これも本作では無視。
 奥州藤原氏に至っては、金ぴかな色男が出てきておしまい。だから、奥州十七万騎を束ねる大将軍でありながら、賭けに勝って奥州を飛び出す義経に、よし軍勢を貸そう、といって付けたのが佐藤兄弟だけ、という不自然な描写になる。
 確かに清盛の視線は中央にあったでしょう。しかし、清盛が、或いは平家がひっくり返される原因は地方にあったわけです。別に武門なのに貴族化して武を失ったとかそういうことではなく、地方経営そのものから遊離したのだ、ということが全く本作品では描けていない。
 「平清盛」は、清盛と平家のホームドラマではない。清盛とライバルたちの駆け引きドラマでもない。それは「大河ドラマ」ではないと思うのです。清盛目線ではそうでも、清盛の目線を超えた視点から、清盛の見えていないところを描かないと大河ドラマにはならないのではないか、いや、歴史ドラマにすらならないのではないかと。
 過去の作品では言うに及ばず、近作では「篤姫」でも、「龍馬伝」でもそれはきちんと描かれていたように思います。できないはずはなかった。
 もうそんなの、なんで前半はあんなに天皇の色恋沙汰に時間を割いたのに、後半で武家のドラマを描かなかったのかとか文句を言う以前の問題で。はい。



■駄作ではあったが
 というわけで、そもそも物語の構成からして失敗していたと筆者は勝手に断じて、駄作認定をさせていただくわけですが、良い点がなかったわけではない。
 個人的には、本当に役者は良かった。松ケン/清盛も悪くないと思いますし、玉木/義朝も悪くなかった。第一、それぞれの親父、忠盛の中井貴一や為義の小日向さんがよい。岡田君の頼朝もよかった。
 だが、何より女優がよかった。和久井の池禅尼もよかったが、何といってもフカキョンの時子、杏の政子が抜群によい。この二人は筆者の中でははまり役。最終回なんて、時子の入水のシーンだけでもう満足。後はどうでもいいw
 画面が汚いのもよかったw。だいたい、平安時代なんて汚いですよ、それなりに。どっかの知事さんが怒ってらっしゃいましたが、放っておけばいいんだよ。ホント。


 というわけで、いろんなチャレンジはあったことを認めた上で、まずはお疲れさまでした。次の「八重の桜」はなんか面白くなさそうなのですっ飛ばして、「軍師官兵衛」を期待したいと思います。


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*1:評判の悪い作品の場合、てこ入れという名目でスタッフを急遽入れ替えるのはよくあることですし、ひどい場合にはスタッフが逃亡したりさじを投げたりして入れ替えせざるをえなくなることもあります。「炎立つ」の時は、原作者の仕事が間に合わず、最後は原作者の高橋克彦が原案者になってしまったなんていう笑えない話もあります。

*2:余談ですが、「平」を名乗る貴族はいろいろある中で、清盛に導かれて中央政権を担った一群を「平家」と言います。桓武天皇の後胤にあたる「桓武平氏」の中で、伊勢地方を基盤とした「伊勢平氏」のさらに一部です。

*3:因みに、平氏や源氏が興隆する以前、律令制がまだ元気だったころにも大伴氏とか和気氏、紀氏、坂上氏とかいろいろ武家貴族はいたのですが、この時代には一部が中央に文官化して残っていたり、或いは一族の自覚を失って拡散しており、もはや元気がありません。

*4:余談ですが、平将門の乱などでもわかるように本来関東は平氏一族が主流の世界で、源氏は義朝の五代前にあたる源頼義やその息子の曾祖父・八幡太郎義家の対奥州戦争の中で彼らを取り込んでいったわけです。ですから、北条氏を筆頭に、頼朝に縁が深い武将たちにも平氏系が多いです。

*5:一応は摂関藤原氏にも繋がる(といわれる)藤原秀郷流の藤原経清が如何に現地豪族に合流し、その息子が流転の果てに彼らを統合して奥州藤原氏政権を作るかという過程、いわゆる「前九年の役」「後三年の役」の話はバリ面白いので、詳しくは高橋克彦炎立つ」を読んでくださいw。

*6:やや和らげて表現してますが、当時の意識としては、ほぼ今でいう「異民族」と呼んでもよいのだと思います。