オープンソース運動の産業政策としての先鋭性

 オープンソースという考え方は、産業政策の対象としてとても面白い。その面白さの核は、オープンソースが持っている「使ってくれることが嬉しい」というモチベーションによる行為継続システム*1が、所有をベースとした(利活用許諾と対価回収)×(投資と所有)という資本主義市場経済の行為の基本モデルとは全く違ったモチベーション構造を持っている*2ということにある。
 ある継続的事業活動を、誰が何をしているかという点に着目して模式化したものを僕はビジネスモデルと呼ぶ。ごく単純なものとしては、金融機関が金を資本家から調達し、それを投資し、そこから生じた果実を一定割合で資本家と分配するというものがある。資本主義市場経済に立てば、誰もが金銭又は将来金銭化される商品(その要素となる材料を含む)を目指して、それをやりとりしているはずである。この仮定のもとにパレート最適の議論があり、その上に新古典派流の自由主義的経済政策が構築されている。
 しかし、オープンソース(とコンテンツ産業)は、そのメカニズムの中に異物があることを示唆する。この外部経済性を、どうやって内部化するかは、とても興味深いところだ。

*1:オープンソースは制作者の互恵メカニズムが本来の特徴だが、現実にはそこからDLだけして使う純粋利用者の数の方が圧倒的に多い。それでもよい、というか、それに目くじらをたてないというのがオープンソースには必要な態度である。このことに着目して、僕は本文のように考えている。

*2:同様の指摘はコンテンツにおける創造行為そのものについても言える。この面白さは、コンテンツ産業に関するビジネスモデルが持っている面白さと通底している。