純粋経済人仮定の限界で動く「価値」

 純粋経済人の仮定が揺れている。別に行動経済学の議論を持ち出すまでもなく、個人のモチベーションはそもそも純粋経済人の仮定から外れている。巨視的な産業組織の周囲における資本の動きについてはさておき、それが微視的な個人のクリエイテビティの次元では十分に言える。こうした次元で問題にされるモチベーションの主体とは、ある行為のその人から見たストーリーである。
 オープンソースにはいろいろなストーリーがつきまとう。例えば反権力。例えば何かのファンとしての共感。例えばその瞬間の楽しさ。それこそいろんなストーリーがある。「意味づけ」と言い換えてもよい。
 大切なことは、この「ストーリー」は超越的な視点から決まるものではなく、それを見る行為者の主観において決まるものだということだ。そして、この主観は容易に毀損される。
 例えば、マンガ雑誌では、読者カードで読者の意見を受け付ける。薄氷一枚のきわどさだが、例えそれがどんなに読者の属性による反応データ集計のためであっても、それは読者へのプレゼントをあげるためだと擬制される。もし仮に雑誌側が本音をばらし、「当雑誌では購買者の属性データを集計するために皆さんから個人情報を集めております。ついては、返送者の中から何人には何をあげるので、ご協力下さい」といえば、読者の行動は変わってしまう*1だろう。

*1:あえて「しまう」と言ったのは、経済という思想では、こういうことは起きないからだ。純粋経済人の定義は、経済的利害こそ、真の価値だと主張する。だから、経済学の教えは、こんな人に対しては「目を覚ませ。どんな言われ方をしても、お前がプレゼントに当たる確率も、そこで書き込む=相手に渡す個人情報も、何も変わらない。お前がそれによって行為態度を変える理由は何一つないのだ。」と語りかけるのである。