政府はどこを向いている?
さて、数年前から日本政府はOSSを鼓舞している。特にLinuxを鼓舞している。その所以は、LinuxはMS-Windowsに対する、重要な対抗策であるからである。そして、この思想をアジア諸国にも鼓舞したが、そこから生まれたのはやはりAsianuxという名のLinuxである。
これは日本政府がOSSに対して対マイクロソフトというストーリーを付与したことを意味している。果たしてこの政策は妥当だったのだろうか?
妥当かということを問う基準は、これによってオープンソースという運動に参加する人々がどれほど活性化されたかを見ればよい。確かに、オープンソースという言葉を政府が口にすることは、その活動環境整備において効果があったようだ。オープンソースという活動が如何に通常の経済メカニズムから外れているとはいえ、それが経済メカニズムの産物を利用、消費していることは、2chですら運営費を広告その他の方法で稼がねばならないことでも容易にわかる。Linuxの機能がより堅固なものとなり、Linuxの様々なディストリビューションが生まれ、次々に商用化されていくということはその成果を物語っていた。仮に、それがMSに支配されないサーバビジネスを目指すIBMの企業戦略の文脈にあっていたからであったにせよ。
しかし、この流れによるオープンソースの鼓舞は限界に来たようにも見える。LinuxがサーバビジネスにおけるMS-Windowsに対するもう一つの選択肢としての地位を固める一方で、各種雑誌の休廃刊が相次いでいるのは、単にネットでの代替を含めた雑誌ビジネスの問題だけではないと思う。
経済産業省をはじめ、いくつかの政府機関でLinuxクライアントの導入が続いているが、これは一体何を目的としているのだろうか?
私見だが、少なくとも現時点において、LinuxはクライアントOSとして十分なものではない。本来極めてカスタマイズの幅が広く、いや、広すぎるUnix系OSをクライアントOSとして成熟させることの苦労は、MacOSXを見れば明らかである。さらにアプリケーションの問題もある。Portlandといったプロジェクトもあるので現時点ではという留保付きで、各デスクトップマネージャソフトでUIも一定していない。GUI環境が一般的である現在のクライアントOSビジネスにおいてLinuxが「勝つ」ためには、まずその成熟が必要である。そしてOpenOfficeなんかに依存するなら、むちゃくちゃ早いJavaマシンが必要なので、むちゃくちゃ早いCPUが要ることになる。
だからダメだというのではない。いずれそれは可能になるし、それを促す政策をするのはよくわかる。しかし、それが今、職員にLinuxクライアントをばらまくことなのだろうか?
これは「オフィスでの仕事なんか所詮定型的なものだからLinuxでも十分だろう?」というWindowsマシンを採用し続ける日本の各企業のシステム担当者へのメッセージ、或いは「ネットワーク環境をもう少し柔軟にせんかい!」*1セキュリティをはじめとしたこうしたネットワーク構築上の))という省内システム担当者へのメッセージなのではないか、と思いたい。ま、そのために税金をこう投入する理由はよくわからないが。
*1:筆者はかつて経済産業省で勤務していた時代に、自分の持ち込んだBSD-Unixマシン(ってMacだけど)を繋げようとしてダメだった経験がある。どこのオフィスでもそうだと思うが、セキュリティを堅牢にするなどの理由で、いろいろデーモンを仕込んでカスタマイズした端末しか繋がらないということは起きがちなものである。柔軟なネットワークというのは、このような条件を満たそうとする上で、特に柔軟にするという強い意志に基づく配慮がないと実現できないものである。でも、Unixの世界ではバージョンやCPUの違いをあらかた無視しても繋がるのに、クライアントとサーバの間ではそうはいかないのね。それとも、Unixシステムをまともに使ったことない、Win厨がSEなんて名乗っているのかしら。