ビジネスモデル論ー論(その1)

 こないだ、twitterで「ビジネスモデルは価値多元主義的世界観と価値一元主義的世界観を繋ぐ」と言ったら、東浩紀大先生をはじめとしてちょろり反応があったので、これについて書いておきたくてブログ更新。ただ、1回で終わらなかったので、2,3回書きます。


■価値多元主義的世界観と価値一元主義的世界観とは
 私がここで「価値多元主義的世界観」、「価値一元主義的世界観」と呼んでいるのは、世の中の動きについてこれを分析するときの「態度」なのです。
 「価値多元主義的世界観」とは、個々の人々はそれぞれの満足を追求しているということは認めた上で、その満足は個々人の多様な価値観に依っていて、それは様々な方法でも複数の価値にしか取りまとめられないという考え方です。逆に、「価値一元主義的世界観」とは、個々の人々の満足は結局たった一つの量的な指標に還元できるという考え方です。
 両者の違いは、究極的には、個々人の満足を一つの量的な指標、つまり一つの質、言い換えれば一つの価値観に写像として落とせるか、変換できるかということになります。そして、あくまで実学としてこれを見ると、その写像、あるいは変換が、我々の行為にあわせて適切な時間関係で計算しうるのか、ということになります。
 これには今のところ満足のいく答は出ていないと思うので、どちらを採るかは論者の姿勢の問題だと思っているのです。だからこそ、どちらも「世界観」であり、態度の問題だと言ったわけです。
 余談ですが、世の中を望ましい方法へ動かしていく、つまり「政策」を仕事の対象としている私としては、これは自分の日常に跳ね返ってきます。すなわち、前者の視点に立てば、多元的な手法をシステマティックに講ずるべきだという態度になります。文化産業政策などの場合、文化的手法と産業的手法を同時に、かつ効果において有機的に連携するよう十分設計して行うべきだということになるわけです。また、文化産業政策のそもそもの目的についても、文化的には云々、産業面では云々と二元的説明をすることになるでしょう。逆に後者の態度を採れば、全ての手法は一元的に説明でき、言い換えれば一元的な政策で実現は可能になります。文化産業政策の場合、全てを規制緩和と市場における資金調達環境の改善といった金融政策に還元してしまったり、或いは全てを文化に触れる公共的機会の増強のような文化政策に還元することになります。また、その説明も、およそ国民の幸せは生活の文化価値にあると言い切ってみたり、あるいはGDPさえ増えれば国家の目標は達成できると断言するところから始めることができます。


■経済学の立ち位置
 この中で、基本的に経済学、特に古典的な経済学(ゲーム理論とかが入る前ってことですかね)は「価値一元主義的世界観」に立っているように思えます。その嚆矢がマルクスだと私は思っています。というのも、彼は交換論の中で出てくる「使用価値」(当事者が、それによってどれだけの満足を得るかと読んでいるところの価値)はてんでおかまいなしで、「交換価値」(交換の連鎖によって、それが市場で評価されるところの価値)のみ(正確には、これと生産過程で投下された様々な価値の構成物としての商品の価値との二つだけ)を認めているように思うからです。
 この「交換価値」の表章である「貨幣(量)」を軸として、それにまつわる様々な主観的評価はあたかも幻想のように捨象するところに、まさに「価値一元主義的世界観」を見ることができます。
 でも、なぜこうなるのか。
 一つは、経済学がそもそも持っている思想基軸の問題としてそうだったのではないか、と。そもそも古典派経済学は市場に於ける交換分析から議論が始まっており、そこでは暗黙のうちに交換の片方には貨幣が存在していました*1。本来、交換の両方に貨幣以外の財が置かれている、物々交換的市場でもよいはずなのに。これは経済学がある種の「均衡状態」を論じているからで、その前提として交換に「大数の法則」を適用しているがため、一つ一つの交換に一期一会性が強い物々交換的取引は対象とできなかったからだと思います。そうこうするうちに、経済学は貨幣一元主義を採用せざるを得なかった。だから、あくまで学問としては価値一元主義的な議論をしていますが、人間としては、貨幣量に還元できない世の中の運動構造を十分理解し、認めているのではないか、とも思うときがあります。
 今ひとつは、貨幣への想いは強く、貨幣を得るためにいろんなものを商品化していく動きが進めば進むほど、結局のところ貨幣一元主義に現実の問題として動いていく、という読みがあるのかもしれません。マルクスは、人間は、まさに貨幣について自己疎外を起こし、自らホモ・エコノミクスに堕ちていくと言いたいのかもしれません。
 私はマルクス個人の研究者でないことはもちろん、経済学者の人間研究をやっている者ではないので、経済学の価値一元主義的世界観がどちらに由来するのか、あるいはどれでもないのかはよくわかりません。ですが、経済学が本源的には「貨幣の学問」であり*2、それが本流を為しているというのは、その応用範囲が広がって、様々な非貨幣的現象にまで説明範囲が広がった今でもそうなのではないでしょうか。


■ビジネスモデル論
 これに対して、ある一連の過程を内包した一つのビジネスの中で、どういうタイプの交換と加工の連鎖で資本を増加させているかということを分析するのがビジネスモデル論だと私は考えています。これは国領先生の「四つの課題に対するビジネスの設計思想」(wikipedia"ビジネスモデル"の項を参照)と近いかもしれません。
 ここで大事なことは、ビジネスモデルを構成する一つ一つの交換は、必ずしもマルクスが想定したような貨幣量の最大化を互いに追求する過程としての交換にはなっていないということです。むしろ、現実には、個々人はありうべき「交換価値」を頭において交換に参加するのではなく、「主観的価値」を右辺において左辺の貨幣を払っている。つまり、ここでは価値多元主義的世界観が基礎に置かれている。
 ところが、ビジネスはある種の資本増加過程になっている。つまり、世界が資本量を増やすことを自己目的とした活動をしている、という価値一元主義的世界観にびったりはまっているわけです。
 面白いことに、価値多元主義的なあり方が、価値一元主義と結びついている。しかも、この両者の結合が、ビジネスとしては極めて効率よく儲かるのです。
 というのも、これは悪いいい方をするとある種の「詐欺的取引」であり、「幻想価値の売買」ですから。売上高利益率は、分母である原価が相対的に小さいので、畢竟、これが大きくなります。つまり、収益性(価値一元主義的世界観における合理性)を追求したいのであれば、人々を価値分散状態に置いておけということになります。他方で、実態として社会は価値一元主義に堕ちていくという考え方に反します。いやぁ、こうなってくれた方が貨幣で獲得できるものは多くなるので、本来、価値一元主義的世界観にとってはこれが合理的なはずなのですがね。
 その結果、ビジネスモデル論から見ると、価値多元主義的世界観は貨幣の価値一元主義的世界観に至る過程ではなく、それと奇妙な均衡を目指しうる関係にあるということが言えそうです。
 これが、twitterでつぶやいた「ビジネスモデルは価値多元主義的世界観と価値一元主義的世界観を繋ぐ」ということの意味です。



 というわけで、第一回はここまで。
 また、2,3日したら第二回書きます。



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*1:だから古典経済学は「価格理論」なわけですね。

*2:これを実感したのは、たしか今やハーバード・ビジネススクールの若き准教授になってしまった(らしい)ハギウ君と話している時だったとおもいます。私が「非貨幣的経済」と言う意味でNon-Monetary Economyと言っていたら、彼は首をかしげ、その表現はナンセンスだというのです。というのも、経済はそもそもMoneyの学問だからだ、と。逆に、その時、私はこの問題に初めて気がついたということです。いやぁ、まさに浅学。

東方神起問題はどう展開するか

 韓国の人気アイドルグループ、東方神起が解散した。
 以上終わり。


 というわけではなく、なぜ解散したか、という話が先週あたりから一部新聞と雑誌メディアでかなり広範囲に報じられている。あまりに広範囲で、あまりにソースと論調が同じなので、関係者(エイベックス?)が意図的に流しているのかも、と勘ぐったりする。
 そう考える合理性はなくもない。というのも、東方神起が日本でようやく本格稼働してあまり間がないところでの解散で、関係者の中には損害を被ったところも少なくないだろうからだ。日本でのマネジメントを行っていたエイベックスとしては、こういう状況の中では、問題はエイベックスにあるのではなく、本国のSMエンタテイメントにあるのだと言いたいだろう。そう考えると、エイベックスのパブかな?と思っている。これはあくまで小生の推測なので、もし違っていたら申し訳ない(と最初から謝っておく)。

 だが、ちょっと気になるのは、その論理構成だ。
 東方神起が解散したのは、むちゃくちゃなマネジメント契約(アルバム収益は、50万枚以上を売り上げた場合のみ、次のアルバムを発売する際に1人当たり1千万ウォンを受け取るのみ、など。詳しくはこちらのリンク参照。)が理由である。そうなったのは、CD売上が韓国で激減し、ライブその他の活動で収益を上げなければならなくなったからである。その理由は、インターネットである。
 一連の報道は、こうした論理で事態を説明している。


 さーて、これをどう評価するか。

■展開1:フリーミアム批判
 コンテンツ販売からライブに軸足を移すのは、C.アンダーソンが有名にした「フリーミアム*1の典型例と言われる。そこでは、フリーミアムがあるから、コンテンツそのものはフリーでもいいんだととられかねない議論があった。だが、ほら、見たことか。フリーミアムではスターはもたない。産業ももたない。フリーミアムは詭弁だ。

■展開2:違法コンテンツ対策強化
 韓国でCD市場が崩壊したのは、インターネットが普及したからだけではなく、インターネットの上で違法複製コンテンツが横行したからだ。東方神起の悲劇を繰り返さないためには、違法コンテンツ対策を強化しなければならない。

■展開3:韓国芸能プロ批判
 いくら市況が悪くても、あまりに非道い契約はスターを壊す。そのくらいわかっているはずなのに、会社の都合でそれを強行したSMエンタはおかしい。いや、日本の芸能プロダクションなら、コストダウンや支援体制の組み替えで対応し、そんな真似はしない。


 うーん、どれもありそう。
 展開1とか展開3はけっこう歓迎。その通りだと思う。
 展開2も理解できるが、ここで「東方神起」というアイコンをかさにきて、あまりに強烈な手法が導入されるのは困る。例えば、音楽ファイルはベンダーのチェック無くして携帯電話やその他のシリコンプレイヤー(PC用プレイングソフトを含む)で再生できないようにするとか*2
 東方神起死んで*3使いにくい携帯プレイヤーを残す。これでは音楽が二度死ぬことになる。

 ちょっと、かなり、イヤ。

 みなさんも、この問題の展開に注目されたい。


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*1:「フリー」という本を書いてこの言葉を有名にしたのはアンダーソンだが、この言葉を作った人物はF.ウィルソンだと言われる。

*2:これはオフライン環境で新しい楽曲が再生できないということになり、かなり問題が大きいと思う。いくらユビキタスだとはいっても、さ。

*3:あくまでグループとしては活動停止したということ。東方神起のメンバーは現時点で誰も死んでいません。

「文化産業大国戦略」とわたし

さて、何人かからご質問を受けたので、ここで書いておこう。

私の職場である経済産業省が「文化産業大国戦略」を発表した。これについて、小生はほとんど関与していない。

個人的立場から言わせてもらえれば、これについては問題も多い。
ポイントは3つある。


■ 賞味期限が切れている看板しかない
 こうした「戦略」のご多分に漏れず、この戦略にも構造はない。これは役所内部での決定プロセスの問題で、あるテーマを決めて、それとあう施策はないか省内に公募をかけて、上がってきたものをまとめてお化粧をするというやり方では、「戦略」に相応しい有機的連携はプロデュースできない。本来、有機的連携を作るなら、個別の発注では存在しないが、他のセクションの仕事=サポートがあるゆえに成立し得た施策、つまり発注後に生まれた施策というのがあるはずだが、そうした省内複数セクション協力ダマがない*1ことがこれを証明している。もちろん、テーマから個々の施策への展開が一本調子の演繹型になっていて、個々の施策の相互関係を示すウェブ型ロジックになっていないこともそれを傍証している。
 ならば、個々の施策がそれだけで事態を大きく打開するものになっているか?敢えて言うと、出入国管理法の改正は面白いかもしれない。だが、事業ダマにはそうした力はない。ファンドに至っては、まず現状の分析をした上で、どこにボトルネックがあるか、それを改善するために資金提供という方法が有効かどうか、さらにそれをどういうボリュームでどういう条件での資金供給をするかという見極めをしないと、結論として導けるものではない。「まずファンドありき」はおかしい。だが、これについてはかなり批判を留保しなければならないのは、個別の作り込みが成否を決めるので、ひょっとしたらものすごくよいアイデアを持っているかもしれない。ただ、それがまだ内部検討中で表に出ていないのかもしれない。だから、ここはひとまず評価を留保しよう。
 構造もない、単品としての力も不明確。だったら、「文化産業大国」という看板が世の中を目覚めさせる力を持っているか?
 10年以上言い続けてそれはないだろう。
 今や政策担当官になってしまったので自戒を込めて言う*2が、政策は、やりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのである*3。「省内公募」と無機質な編集プロセスから正の相互作用をもって機能する施策パッケージなど生まれるわけがない。


■ クールジャパンはインナーシンキングだ
 「クールジャパンを海外展開」を逆から読んでみよう。いや、日本を客体にして、そうだなぁ、イギリスでも主語にしようか。「『イギリスはカッコイイ』から文化輸出を積極展開と英政府」なんて記事を見たら、どう思うだろうか。小生はこう思う。「アホか」と。
 これを韓国がやれば、2nn流にいうと「ホルホル」ということになる。言われた方が「あぁそうか。韓国文化はいいのだろう。自分も味わってみよう」とは思うまい。少なくとも小生は思わない。「アホか」。である。
 それどころか、自分より圧倒的に経済力、軍事力、人口力などが強い国の言説であれば、むしろ文化侵略論を惹起する。おいおいやばいぞ、あいつらこっちを同化しに、文化輸出しに来るぞ、ということだ。そう来られたら、普通は輸入障壁作ったり、いろいろ妨害工作するわなぁ。そういえば、中国で外国製アニメ(といっても日本製か米国製だけど)の輸入規制が強化されたのは、クールジャパンと言い続けていた2006年のことだったっけか*4
 これは最悪の事態である。
 批評家の東浩紀も書いているが、クールジャパンといわれている現象のすべてが、全く新しいことではない*5。というか、それを今さら認識の野に入れて新しいことのように思っているとすればそれは本人の認識力不足である。あ、それは繰り返しになるか。
 これについて、いや、まだ日本国内の認識は進んでいない。クールジャパンという考え方を届けることで、日本に希望を感じ、元気になる人がまだいる、というかもしれない。そうかもしれないね。でも、そういう感度の低い人は、少なくとも「クールジャパン」とは関係ない世界に住んでいて、それが発動しても限界効用は低いから放っておけばいい。
 むしろ、クールジャパンを国内で連呼することで、それがこの国内のこと海外にダダ漏れという現在の言説環境によって、逆の影響を海外で与えてしまうということにどうして危機感をもたないのだろう?とてもドメスティックな思考様式で、官僚たち*6のインナーシンキングではなかろうか。


■ 本当にすべきことは製造業とサービス業のクリエイティブ化ではないか
 コンテンツ産業やデザイン産業が、その力をより金銭化すべきだという理屈はよくわかる。それについては何も異論はない。だが、問題はそれで終始していいのかということだ。
 そもそも、商品とクリエイティビティは2つの次元で関係性がある。一つは商品、サービス自体であり、それは、例えば、iPhoneiPodを見ればわかる*7パナソニックソニーといった製造業が技術的優位を持っていると言っている横で、魅力ある商品はアップルのようなファブレスから生まれたりする。もう一つは商品、サービスのプロモーションであり、サムスンやLGが洪水のような宣伝戦略を仕掛ける市場で、確かに商品は売れている。
 後者については、「コンテンツの強さを上手く使ったビジネスを」というのは間違いではない。たしかに、アニメも特撮も、まったく実用性がない「玩具」に市場価値を与えてビジネスを作るという大技を、長いこと担ってきた。
 だが、前者についてはどうか。そもそも製造業やサービス業の大企業が、自意識だけにドライブされたオタク的に高度な技術開発をした結果、自らは利活用できない技術資産を蓄積してしまっているのではないか。そうこうするうちに、外国企業もキャッチアップしてきて、オタク的に高度な技術はフツーの技術になってしまった。
 思考形態の問題として、「日本にはこういうよい点があるからこれを伸ばそう」という考え方があるのは認めるが、それに固執するとインナーシンキングに陥る。バブル後の第三の敗戦をまだ事後処理中の日本国としては、むしろ反省と変革をいまだ鼓舞する時ではないか。
 商品開発のプロセスを変えたり、むしろファブレス的な企業経営を鼓舞したりすること。プロモーションの重要性を理解した上で、製造オリエンテッドではなく、プロモーションオリエンテッドな事業展開を志向すること。大企業だけではなく、中小企業にもそうした事業展開ができるように環境を整えること。もちろん、中小企業流のイメージ戦略や小回りのきいた市場コミュニケーション戦略*8を活かすのであって、単に大企業の悪いマネをするわけではないことは前提に。
 これはクリエイティブ産業と称されたコンテンツ産業やデザイン産業の問題ではなく、むしろ製造業やサービス業の経営マインドの問題である。今回の文化産業大国戦略にはこれを変えていく切り込みがない。


 というようなわけで、小生は今回の「文化産業大国」には問題が多いと思っている。そして、もちろん、現時点でこれに噛んでいるわけではないので、とりあえず、そのことだけは伝えておきたいと思うのである。うん。




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*1:これは外部からはわからないね。ゴメン。中の人ゆえのコメントと思ってくだされ。

*2:役人批判は自己批判

*3:現実には、人間はやりたいことをやる。有名人に会いたいからプロジェクトを作るなんて役得を狙うのはまだ可愛い方であって、予算をとってどこぞの団体に付けておしまいというようなぬるい政策を、ただ楽な上に成果としてカウントされるからという理由でやりたがる役人は多いのである。

*4:これに対して、外交上有意な反撃ができていないような気がするが気のせいか?

*5:もともとアニメが好きだった小生は、たしか11歳くらいの時にアニメージュでゴルドラック=グレンダイザーがフランスで大人気!という記事を読んで、感銘を受けたことを今でもよく覚えている。いまや30年の話だが。

*6:繰り返すが、今や小生もその一端だから、これは天につばを吐いているのである。

*7:iPadをこれに加えていいかどうかは、少し様子見。多分、加えることになると思うが。

*8:市場コミュニケーションという言葉はコンテンツ課の研究会の名称が初だったような気がするが、これはよい言葉ですよ。

アメリカ、アメリカ

NYに来ました。20年ぶり(!)に。

 今から21年前、僕は20歳の誕生日にこの街にいました。
 だって、20歳だもん。NYで迎えなくっちゃ。


 すっげー ミーハー。


 ペン駅に着いて、すぐにボトルマン*1の洗礼を受け、まぁ怖い、高い、臭いの三拍子そろったすごい町。安宿に居きれなかった僕はこんなとこには居られないとばかり中級ホテルに行きましたが、それを冷たく見送ったイタリア人の青年は、空を仰ぎながら「So what? 'Cause, this is NY!」とつぶやいていたNY。


 生まれて初めて大西洋を渡ってこちらに来てみてビックリ。


 なんと、人の顔が明るい。街が明るい。
 狭い路地、石造りの古い建物でけっこうギチギチしていたロンドン。それほどじゃないけど、ある種の空気で充満していたパリ。それに比べて、マンハッタンのなんと開放的なことか。


 後で聞いたところでは、90年頃のNYは一番悪い時期だったらしいですけどね。


 なんだか、ここが「新大陸」だと、初めて肌で感じました。
 うーん、太平洋を渡ってくるのと、大西洋を越えてくるのと、これほど違った感覚になるのかぁ。


 アジアは、東京は、まぁそれぞれ古い歴史の上に立つので皆がらとはいいませんが、アメリカのようでありたいナァと素直に思いました。まぁ香港や上海、東京を見れば、どっちかといえばアメリカっぽいとは思いますがね。


 さぁ仕事、仕事。




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*1:肩をぶつけて荷物を落とし、瓶が割れたといっては金をせびる、一種の詐欺

久しぶりは無題だよ

 いま、経済産業省という組織で仕事をしています。そこでは、色々なビジョンや戦略が書かれています。

 経済産業省というところは、面白い人材も多くいますし、刺激的で、暖かい職場だと思います。けれども、一つ気になることがあります。それはどうして色々なビジョンや戦略が出てくるかということそのものです。
 一つ一つの整合性を強迫症的にとってもしょうがないとは思うのですが、ビジョンや戦略が一つのメカニズムを共有していることは、それが一つの組織である以上当然だと思います。それがあるのであれば、そんなに沢山の政策が出るのは少しおかしい。しかもすでに公開されているいくつかの戦略を見ると、そもそも「メカニズム」が見出しにくいものすらあります。

 なんでこんな話を書いているかなんですが、ここ数ヶ月、ものすごい危機感に襲われているからです。それは、AmazonKindleを目にしてから、論じ古された、なぜiPod/iPhoneが日本からでなかったかというテーマをもう一度考える中で起きてきました。
 結論ですが、幕末ブームだからではないけれど、どうも明日へ続く資源が昨日の人達に囲い込まれているようだ、と確信するようになりました。政府部門についてもそうでしょうが、問題は、民間もそうだということです。別の言い方をすると、商品の開発が巧い人と、要素技術を開発できる人と、工場を運営して低コストで商品を製造できる人の間でミスマッチが起きています。もちろん、今もっとも重視すべきは商品開発レイヤーなのですが、それが要素技術レイヤーや工場運営レイヤーの不当な干渉の下にあります。
 それは全く知財と会社制度のなかで私的財産制度に基づいて作られた構造であり、市場主義、自由主義、資本主義の観念からするとどうにも問題提起すらしづらい状態にあるようです。教科書的近代経済学のブーメラン効果が、経済政策、産業政策の現場に起きているような気がします。

 それをものすごくクリアに書いてくれたブログを、小生の大学の先輩からtwitしてもらいました、とてもよいので、下にリンクを張っておきます。是非ご一読下さい。

http://blog.goo.ne.jp/mit_sloan/e/0d19edef63fbc07781d82a30609745e0

 私はエンターテイメント産業の友を自認していますが、もう少し、他の産業のことにも汗をかかねばならないか、血を流さねばならないかと覚悟し始めています。資源の再配分を市場に於ける自律的財産移転以上の意味を超えて行うとすれば、それは一つの革命であり、少なくとも大きな責任を負った改革になります。
 それから逃げたくない。

 そう思ったパリです。



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日本文化政策学会に登場のおしらせ。

直前ですが、9日土曜日、日本文化政策学会に参加します。皆さんのご来場をお待ちしてます。
告知でした〜 ♪


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日本文化政策学会若手フォーラム
コンテンツ政策からみた文化政策」開催のお知らせ



クリエイティブ振興政策に世界のトレンドが向かう中、まるでガラパゴスのように文化政策コンテンツ政策が分かれている日本。
どちらも新しい領域として文化政策研究とコンテンツ政策研究が生まれ、同じく社会や政策に活かされる実学としての取り組みが行われる中、相互の交流がまだ少ない状況にあります。
文化政策学会が今回、東京で開催されるのを機に、東京でしかできないプログラムとして、コンテンツ政策研究および政策実践における若手第一線を討論者に迎え、相互の交流となるプログラムを1月9日の午後8時より「政策夜塾」として開催します。
学会プログラムでありますが、学会外の方も無料で参加できるオープンなプログラムです。
日本のソフトパワーそして文化による社会再生に注目が集まる今とこれからを、それぞれのみなさまと共有できればと思い、おいでをお待ちしております。


開催情報


■ 開催日時 2010年1月9日(土曜日) 20:00-22:00
■ 会場 東京藝術大学 千住キャンパス
JR常磐線東京メトロ千代田線・日比谷線東武伊勢崎線つくばエクスプレス 北千住駅下車
西口、仲町口 徒歩約10分
東京メトロ 1番出口 徒歩5分
□ 会場案内リンク(東京藝術大学千住キャンパス) http://www.geidai.ac.jp/access/senju.html
■ フォーラム告知サイト http://creativecluster.jp/2010/01/post-45.html


■ 討論者
境 真良 経済産業省
津田 大介 インターネットユーザー協会
作田 知樹 東京大学大学院人文社会系研究科(院生)/ Arts&Law
生貝 直人 東京大学大学院学際情報学府(院生)/クリエイティブ・コモンズ・ジャパン


□ 座長
岡田 智博 東京藝術大学大学院音楽研究科(院生)/クリエイティブクラスタ


■ 会費 = 無料 (当日はそのまま会場においでください)


○ 本プログラムも含め、1月9日(土)・10日は、同会場にて日本文化政策学会 第3回年次大会が開催中。あわせて御参加下さい: 大会の内容は公式サイト http://www.jacpr.jp/ を御覧ください


● 本件の問い合わせ先 = 岡田智博(座長) 電子メール okadatomohiro@hotmail.com

【彼女」について

http://www.gizmodo.jp/upload_files/upload_files/091227XmasPhoto-6.jpg

先日、とあるパーティで、オタク系の代名詞となっていた「ラブプラス」。スゴイのはわかっているが、まだやってない(^_^;)。


このラブプラス。なかなか爆発的なパワーを秘めている。
その一端は、こんなところにも出てくる。すなわち、彼女を「彼女」と書くと、ラブプラス上でのパートナーのことになる。また新しい表記法が生まれた。


今年、目を引いたのは、「彼女」達とクリスマスを過ごす、ということだ。
それはそれで理解できなくはない。自分だって、キャラに恋した想い出がある。遠い昔のことだが、今にまでその影響はある。


ただ、その写真を見て、考え込んだ。何かに似てるな・・・あ、「陰膳」だろ、これ?


「彼女」を本当に好きなら、こんな「彼女」が死んじまったような表現はどうかと思うのではなかろうか、とも思ったが、まぁそれは感性ということか。


それはさておき、31日、大晦日コミケ。西地区“ら”01aで、またもや六角商事がオープンします。今回は、部数限定。来れる方、お越し下さい。





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