「一般意志2.0」読後

 年末から読んでいた「一般意志2.0」をようやく読み終えて、書評ならぬ、読後感想を書く気になった。
 さて、ネット界ではけっこう読まれているような本書だが、霞ヶ関内でも密かに読まれているのではないだろうか、と思う。だが、小生もある席で「グーグルが政治決定をするという間違った内容」と評されているのを聞いたように、その内容が的確に理解されていない場合も多いのだろうと思っている。


■小生の読み方
 小生の読む限り、本書の主張は極めてシンプルである。全体は<分析>と<提案>に分けられると思うが、まず<分析>の主眼は①(ルソーの言う)「一般意思」とは社会の「無意識」のようなものであって、言語によって練られた意志決定の結果というより、個々の情念の総合化のようなものであること、②その「一般意思」は情報技術により可視化できる(一般意志2.0)のではないか、ということである。そのシンプルな主張を、東(以下、敬称略。すんません)は何度も、様々な既存の議論を引きながら変奏曲のように繰り返していく。
 次いで<提案>は、従来型の「選良」による熟議的プロセス(統治1.0)の価値を認めつつ、①統治1.0の各過程をリアルタイムに情報公開させること、②情報公開から生じた一般意志2.0を統治1.0の議論過程にリアルタイムに伝えることで、統治(1.0)と一般意志(2.0)をダイナミックにコミュニケートさせることで「統治2.0」を実現し、それにより民主主義そのもののあり方を民主主義2.0に進化させられるのではないか、としている。と思う。


■なぜ誤読が多いのだろう?
 正直に言って、この通りで大きな間違いがないのであれば、あまり誤読を惹起する点は、本書には見当たらないと小生には思われる。
 しかし、Twitterを見る限り、誤解や誤読は後を絶たない。東はその誤読について自覚的であって、想定される反論に対して、説明を重ねていく*1。ここにおいて、東の議論は面白いほどぶれていないし、むしろわかりやすくすらある。
 それでも「誤読」が多いのは、東の切り込み方がはっきりしすぎているからというのと、いくつかの刺激的な固有名詞を使っているからだろう。彼が前提としている世界観は我々には当たり前すぎて、そこで持ち出す固有名詞も我々にはなじみがありすぎて、それだけに、それを用いて政治論に切り込まれるとドキッとするだけだ。むしろそれは、本来もっと早く起きるはずだった議論を看過していたことに自分で気づいてしまうからかもしれない。いずれにせよ、切り込まれた側の方が脊髄反射してしまっているように思える。そういう意味では、本書から誤読が生まれやすいとしても、それは東本人のせいではないような気がする。*2


■統治2.0の現状と系譜について
 さて、そんなことはさておき、自分に関心があるのは「統治2.0」の方である。東自身がこの書物は今進んでいる様々な事象に基づいて書いていることを認めているのだが、これを別の側面から言えば、実際に政府の現場でもこうした動きはまさに進んでいるのである。
 多くの審議会や研究会でニコ生などによる公開は進んでいるし、いわゆるtsudaる行為を禁止している審議会はそう多くない。すでに経済産業省商務情報政策局長の正式な研究会がまさにニコ生を舞台に行われている(小生自身が参加したニコ生「経産省新時代IT政策尖端研究会」)。
 そもそもこうした動きは今に始まったことではなく、90年代後半に相次いで各省に導入された「政策評価広報課」というセクション設計にもその断片が見て取れる。これは当時の通商産業省で最初に導入されたものだが、いかにも奇妙なネーミングである。だが、このネーミングに実は狙いが隠されている。
 小生も若干議論に与ったところがあるが、この奇妙な名前の基礎には、政策評価の基礎は社会的評価であり、それは広報に対するほぼリアルタイムの社会的反応(当時の状況では、ニュース番組や情報バラエティなどの場を使い、マスメディアを介したものを想定していたのだが)で決まるから、政策評価=<社会→政府>の情報流と、広報=<政府→社会>の情報流は一組のものであるという思想があった。そのため、従来の「広報課」は、所詮記者クラブの世話しかしてないだろうと言わんばかりに「報道室」に格下げになってしまったほどだ。不幸にして、その後、政策評価の中心は政策評価審議会(現・政策評価懇談会・研究会)に移ってしまい、当初の設計思想が今どの程度残っているかはアレなところだが、しかし、こういう「会話的政策決定」とでもいうアイデアはけっこう古くからあったような気がする*3


■統治2.0論と代議制民主主義
 さて、東が提案する統治2.0について論評する際、なかなか難しいのは、おそらく、その視点は自身の置かれているポジションで大きく異なるだろうということだ。一般市民にとっては政治参加の形態論だろうし、その意味も選挙権を持っている人と、選挙権を持たない人では大きく変わってくるだろう。そして政治家や、ジャーナリストとなるとまた違う。
 その中で、自分は政府の現場にいるので、まさに統治1.0を担っている者として、この提案をどう受け止めるのか、といった見方をせざるを得ない。
 まず、「選民」民主主義*4という東の指摘は極めて真っ当で、奇異感はない。「選良」の代表とされる代議制民主主義について、政治学、中でも憲法論的な意味でのそれは、統治のコスト論という制限の中で、直接民主主義と間接民主主義という二つの理想、二つの悪夢の間で揺れ動いている。しかしながら、我が国では一般的に憲法の議論、特に統治編の議論は既存の政治に対する配慮からか論じられる傾向が少なく、それゆえ、今現在起きている事象を議論に導入する動きが弱い。敢えて言うと、選挙活動へのネット利用の是非くらいのものだろうか。そんな中で近年の情報技術を上手く使って低コストでオープンなコミュニケーションを統治1.0の接合面で誘発するアイデアは合理的であると同時に時宜を得たものであって、その提案自体を歓迎したい。
 東はいわゆる憲法論や憲法論ベースの政治学の専門家ではない。だが、情報社会学の専門家の一人として政治論に対して対して果敢になされたこの提案について、憲法統治編の議論が今後無自覚であってはならないのではないだろうか。
 ただ気になることもある。
 まず、前置きとして、統治2.0と民主主義2.0この中で、まさに「社会」と政治決定の間を調停する役目を負わされていた「議員」のあり方は大いに変わる。そもそも「代議員」は、「間接民主制」主義からは大衆の要請を上手く止揚して合理的な決定を導く「選良」であることを期待されつつ、「直接民主制」主義からは統治コストの問題ゆえにやむなく措定されたという、両者の妥協の産物という側面がある。
 一般意志と統治の間に新しいI/Fが措定された以上、例えば監視の中で議論する「選良」は案件毎に当該案件の専門家であればよい、という読み方もまた可能ではないか。言い換えれば、「選良」は必要であるが、それが「代議員」である必要はない、とも読めるし、そういう思考実験もまた可能だと思う。もちろん、統治の「正当性の契機」という議論において、「代議員」を廃することは無理だろうとも思うのではあるが。
 そして、東はあくまで一般意志2.0を、政治決定がそれに従う対象ではなく、むしろそれを自覚して決定を行うレファレンスとすることを*5前提に統治1.0をより高めるための装置として採用することを唱えているのだが、「選挙で勝つ」方法としてこれを曲解する政治家は必ず出るだろう。仮に一般意思2.0に従うことをナチスよろしく自らの政権の「目的」とするなら、その基本的性質故に、個別論では相互に矛盾をきたし、おそらくそれに従う具体的政策体系そのものが不能解であろうとは思うのだが。
 敢えて言うなら、こうした間違った選択をどう抑止するのか、という点についてははっきり書き切れていない気もする。


■統治2.0と民主主義官僚制
 一般意志2.0の登場によって、様々な局面で、代議員の頭越しに具体的な政策現場、特に審議会その他の準意志決定機関と一般社会が直接にコミュニケートする場面が増える。そして、こういう接合面が膨らめば膨らむほど、そこで専門的な議論を行う「選良」の役割が皮肉なことに強まるだろう。東の想像力はそこまで及んでいる。
 だがしかし、実際に統治1.0の現場に居る者としては、そこでこの「選良」の議論の場をプロデュースする官僚機構の挙動は統治2.0の対象として充分に対象化されてないように感じることが歯がゆい。
 現時点において、準意志決定機関の委員選定とアジェンダ設定は官僚機構の手にまかされている。したがって、如何に準意志決定機関を統治2.0のシステムに組み込むとしても、そこで委員の自由度は充分に働かないのではないか、とも懸念するのだ。
 では、官僚機構の内部におけるあらゆる議論を統治2.0のしくみに委ねればいいのか?小生自身の感想を言えば、それは無理そうである。もちろん、官僚機構内の重要な会議について統治2.0のしくみを導入することは出来るだろう。しかし、それが適切ではないアジェンダもあり、全てにおいて公開をというのは無理がある。そして、おそらく一般意志2.0をあざ笑うように恣意的になされる決定は、そうした非公開が認められた場所に遷移していくのである。
 小生は、官僚機構が自らに対する評価を第三者がすることを喜んで受け入れた例を見たことがない。
 そういう意味では、役所流に言えば、タマは「選良」の側に投げられているのだ。一般意志2.0に対して「選良」の端くれとして、或いは(もし自分は「選良」なんかじゃないと自任するなら)「選良」を支えるものとして、どれだけ誠実たれるか、「選良」と直接「選良」を支える者の側に、どう答えるかと東は問うているのである。
 もちろん、「選良」を支える者として、小生もその問いの対象になっていると自覚している。


■最後に
 東の議論は粗い。というのは簡単である。彼自身が「本書はエッセイである」とする中で認めているようにも思う。しかし、東の指摘は意義深い、と、少なくとも小生は思っている。
 国会や官僚機構の現場において、東の議論は無視されるかもしれない。いや、それ以上に、東を賞賛しながら現実には背を向ける行動をする者も少なくないだろう。
 佐々木俊尚さんの言ではないが、東浩紀はネットの中、本のむこうに留まっている人物ではない。もっとフロントに出てくるべき人物である。だが、同時に、それだけにつらい思いをすること*6もあろうかとは思う(充分タフになっているので、心配しているわけではないのだが)。だが、それらを乗り越えながら、果敢な言論を期待するものである。
 そして、長々書いてきたのは結局これを言うためだったのだけど、一言で言うなら「面白かった。今、読むべき本を読めたと思う。ありがとう」ということなのだ。




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*1:ちょっとこの言い方は奇異かもしれない。だが、小生にはそう思える。というのも、誤解を恐れずに言うなら、この<想定問答>で彼の議論はダイナミックに発展しているわけではないように思えるからだ。東の回答は、東が当初から予定していたものであり、当初から語っていたことと何ら矛盾してはいない。いや、むしろ予想される通りのものだ。つまり、彼は語りたい答を最初から頭に描いて本稿を書いていたことになり、言い換えれば「想定された問い」は彼の<分析><提案>に対するビーンボールであるからだ。東はそれをトリガーとして利用しながら、また同じ事(或いはその延長)を別の言い方で語っていくのみである。

*2:もちろん、そもそも文体から言葉の選び方から著者の責任であるので、東の責任でないというのは言い過ぎだ、という指摘もあるとは思う。だが、小生は、明かなミスリードがない限り、誤読の責任は、書き手と読み手の双方にあると思っているのだ。

*3:しばしばマスコミにこれから仕掛ける政策をリークしてその反応を見る、というようなこともその一環であろう。

*4:「選良」には、抽象的に「選ばれた者」「知見者」「エリート」と読む説と、「選挙で選ばれた代議員」と読む説とがある。東は前者を採用しているのではないか、と小生は読んでいる。

*5:本当はもう少しダイナミックに捉えているので、これ以上の含意が東にはあると思うが。

*6:例えば、ネット界の論者として若手では双璧とも言える津田大介氏は、文化審議会著作権部会の委員になった時に経験した様々な経験が、今の政治的にアクティブな生き方に良くも悪くも影響していると小生は思っている。

大きな組織だと改革が難しいのなら

 いつもはTwitterを使うのですが、これは大事なことなのでブログの方に書いておきたいと思います。

 お題は「アップルは既存技術組み合わせ製品化、ファブレスで組み立て、カルチャーの香りでファン増殖戦略だから、他メーカーの追い上げに悩まされることは必然。日本メーカーも、そろそろ目覚めてほしい。」という問いに、小生が「わかってできない日本メーカー」と答えた理由です。

 端的に言うと、日本の家電メーカーは自身の企業戦略を変えようと思っていないから、というのが答えです。
 どんな企業も「生き残る」ために新たな手を打ちます。ただ、問題は「生き残る」とはどういうことかということです。資本家の目から見れば、同じ資本の下にある事業の連続対が継続すればいいわけで、極端なことをいうと商品も入れ替わり、人的構成も入れ替わり、名前も変わっても構わないということになります。けれども、小生の見る限り、日本の家電メーカーはこういう割り切りを持っていない。その結果として、商品も変えず、人的構成も変えず、名前(ブランド)も変えずに頑張りたいと思っているようです。その結果として、戦略の自由度が低くなります。だからアップルのような戦略には曲がれないのです。アップル型戦略をとるには人的構成も変えなくてはならないし、商品レイヤーも変えなくてはならない(その内数として既存工場の放棄=レイオフという鬼門にもぶち当たりかねない)し、ブランドだって変えなくてはならないかもしれない(ブランド無しでやってきた経験はないでしょうし)。

 もちろん、これはちょっと言い過ぎで、大胆な戦略の転換をしようとする人もいます。
 こういう方々の貴重な試みは、しかし、本体を温存しつつ行われるので「新規事業」となります。そして、会社の資源も充分に配分されず、さらに他の事業との「絡み」で様々な縛りを科せられ、オマケにその人達は、その新しい変革で、既存の会社全体を救うような未来を約束することを迫られるわけです。まあ、(かなり嘘をつかないとw)あり得ないです。

 小生の感ずるところ、日本の家電メーカーは、新しいアクションには経営側の管理が極めて厳しい。それでいて、従来路線を続けるという判断には、圧倒的に甘い。

 なんだか、日本の家電メーカーに残された改革の選択肢は外国事業者との深い融合であるような気がしてくるほどです。産業革新機構が発行した社債を日銀が大量に買い取り(円を増発して)、それでパナソニックサムスン電子を買収させて、新会社のCEOにイ・ゴンヒを迎えたいくらいですw。本社だけ東京に移せばいいでしょw

 それか、一度、既存の事業部毎に完全分割してほしい。「シナジー」とか「連携」とかは同系他部門からの戦略干渉を正当化し、頑張りたい部門の戦略的オプションを減らす悪魔のような言葉なので、そんなものなくていい。その上で、ダウンサイジングされて、身軽になったチームの中から成長株が生まれればいいと思います。
 他は消えればいい(そんなに簡単に消えないですって)。

 その際、仕事がなくなる部門が出るかもしれませんし、身軽になっていいというなら工場とかが閉鎖され製造業雇用が減るかもしれませんが、それでいいじゃないですか。お役人の顔を見て仕事するより、商品やサービスを買ってくれるお客の顔を見る方が健全ですよ。それに、製造業雇用がサービス業雇用より「悪い」ということは全くの偏見で、正直、そういう見解には同意できませんな。

 と思っている次第です。

 けっこう、本気ですよ。


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「標準化」に関してブログで呻く件

 年末のブログに関して、初音ミクを世に出されたクリプトンの伊藤社長から丹念なコメントをTwitter上でいただきました。嬉しい限り。Twitterの140字の限界はつとに指摘されるところで、言葉たらず、紋切り型の不快感から喧嘩になることも多いのだけど、ちゃんとしたやりとりになるのはいいことです。ただ、やはり140字ではすまないので、往々にして連投になりますが。
 で、だいたいはTwitter上(の連投(>_<))でお返事したのですが、その中で「標準化」についてどう考えてるかという質問があって、これは別のTweetでも指摘されていたところだったので、ちょっとまとめて今の自分の考えを書いておこうと思いまして、急遽ブログにアップしました。


 出発点として、これまた年初にいただいた @y_shigenari さんの「日本の行政は標準化すること自体に価値を見い出している。」というTweetを置きたいと思います。


 これはその通りなんです。別に「日本の」と限定しなくてもいいけどw


 考え方の出発点は、技術が世になす「貢献」は、一制作当たりの効果を大きくすることと、一制作当たりの「品質」を向上させることのセットだと考えることだと思います。たとえて言うと、映像技術でいうと、ある作品の鑑賞方法が多様化すると一つの制作の「貢献」は上がる、と前者は言っています。そして、後者で言いたいことは、作品そのものがもっと感動的*1なものになることでも「貢献」は上がるということです。
 両者は独立ではないと思っています。
 すなわち、前者が後者を促し、後者が前者を促す関係にあると。例えば、映像(動画)の効果はすごいと思うからこそ、生活のもっといろんなところに映像を埋め込みたいと思う気持ちが起きます。映画館からテレビへ、ビデオという方法へ、ネット化以降はさらに加速して映像配信へ、webコンテンツへの埋め込み手法へ。さらにワンセグ、サイネージ、あーもうどうでもいいくらい。
 こうして僕たちの生活は映像で満ちあふれてくると、映像作りをする人も増えてきます。そこでよい競争が起きれば、品質の向上が起きる、と考えます。ここの構造はそうとう入り組んでいます。ただ、敢えて紋切り型で言っちゃうと、制作技術とクリエイタの能力の二つに集約されるかなとも思っています。
 ここで重要なことは、往々にして行政の中の人は開発者ではない。だから、後者の次元でこうしたらもっといいものができるよ、という具体的プランはない*2。これが前者の次元、すなわち、一つの技術を様々な生活シーンに埋め込むことを促したいという考えに行政が入れ込みやすい原因だと思います。
 前者を推し進めると言うこと、その一つの表現が「標準化」だと思います。年末のブログで書いたように、それは一つの技術がいろいろな領域に作用するということだけを含意しているので、今風に言えば、APIプラグイン、データコンバートなんかの概念を含むもので、「連携」とか「共通化」と表現する方が本当はいいんでしょうね。


 ただ、ここで一つ問題になるのは、APIでもプラグインでもデータコンバートでもいいし、「標準化」でもいいんですが、それをしたからといってクリエイタの裾野が広がるかというと、疑問です。ここは語り出すときりがないですが、原因の一つとしては、本当は作りやすい環境=開発ツールの存在が重要で、それはそれ自体が開発の領域にあるので、行政の中の人には手が及ばない所だという事情もあります。だいたい国が手を出したコンテンツやソフトの開発ツールで使いやすい!なんていうものを僕はまだ聞いたことがないです(不勉強かもしれませんが)。
 年末ブログでも書いたのですが、よって何より、関係者とよく議論して、うまく協力し合えるような「連携」や「共通化」、あるいは「標準化」みたいなものができるならそれがいいんじゃないかと思います。行政側はすでに述べたような理由でそれをしたいと思うんだろうけど、無理矢理横から変なことをしても徒労に終わり、或いは業界を混乱させるだけですからやめた方がよい。逆に、仮に「標準化」であっても、従来からツールを作ってきた人達と納得ずくでできるなら、そうした既存の良いツールに組み込んでもらえるでしょう。そうしないと効果は上がりにくいと思います。


 ソフトウェアやコンテンツの「標準化」に関する一般論としては、こんなことを考えています。




 さて、伊藤さんからはお題として「VOCALOIDMMDについて技術の『標準化』をどういった政策なり経済的効果にリンクして行きたいのか」という質問をいただいたので、上記説明を前提として、ここから回答していきたいと思います。
 まず、年末ブログに書いたように、こと初音ミクライブイベントについて自分は一観客、或いは関連産業の研究者としてこういう動きが広まったらいいなぁと考えている人なので、その出発点において「政策」とは全く無関係です。もし「政策」とリンクしている部分があるとすれば、自分はコンテンツ産業のメカニズムと関連政策を研究している人なので、そういう視点が浸みだしているかもしれない。これを自覚的に書いてみた、ということになります。
 ただ、もう一度精一杯留保しておきたいことは、僕は自分の属する組織が行っている「クールジャパン」政策については全く関与していないですし、コンテンツ関連政策にも部分的にしか関与していないので、経済産業省を代表して考えることも、コメントすることもできないということです。それがお望みであれば、経済産業省の関連部署に確認されることをお勧めします*3


 経済的効果の議論は、冒頭の説明に尽きると思うんです。
 MMD*4が、出力としては様々なブラウザにマッシュアップされ、入力が開放されて他のアプリケーションから(できればリアルタイムで!)モーション操作されたり、他のアプリケーションと3Dデータを共有できるようになること、これが「連携」「共通化」、そして「標準化」のイメージです。それによって、MMDをベースにした楽しいコンテンツ(と、正確にはそれによる楽しい体験)が増えること、それが「貢献」の増加です。
 ここで「貢献」と敢えて文学的に表現している理由は、それを経済効果としてどう把握するかという議論が欠落しているからです。
 これはさらに視点をどこに設定するかで議論が分かれています。


 第一に、事業者の視点に立つなら、「貢献」と事業者の収入増の間をどう結ぶかという、コンテンツ産業論の中で中核的なビジネスモデルの議論だと思います。
 直線的には、著作権やオーサリングソフトのライセンス契約などを使って単位利用当たり使用料を取るという考えもあります。あまり喜ばれないけど。
 もう少し普通なものとしては、仮にデータフォーマットはオープン化される*5としても、オーサリングソフト/サービスとしてのビジネスを追求すればいいというものがあります。例えば、OOXMLができてもMSはオフィスを出し続けるでしょう。その場合の商品力は、使いやすさとかそういうことになると思います。
 もっと間接的には、MMDの交流空間(ファンクラブとかコンテンツマーケットプレイスとか)を運営するとかいう考え方もあります。MMDの話をしているので何ですが、仮にクリプトンさんがということになれば、初音ミク他の自社展開キャラクターに関するキャラクタービジネス収入増加を見込むこともあるでしょう。そういえば、クリプトンさんは「ピアプロ」もなさっていたはずで、その効果とかそこらへんのご経験については、むしろお聞きしたいです。
 さらにもっともっと間接的になると、自社にブランド効果があがればいいやと割り切るという考え方もあるかもしれません。
 ここら辺は各々の事業者の経営スタイルに属することなので、僕からは何も言えません。


 さて、これで本当に収益は増えるか、どのくらい増えるか。
 いや、まぁ現時点で算盤を弾いているわけではないですし、各ビジネスモデルで収益性も違うので、定量的な答えはご勘弁ください。
 定性的ということだともう少しマシで、競合社がでることによる収益減とオープン化のための追加費用しかマイナス要素がない。一般的には、上記の戦略次第ですが、それほど破滅的マイナスにはならないかと思っています。
 もちろん、このマイナスを避けるためオープン化しないという戦略*6も当然あります。けしてオープンにしろと責め立てているわけではない(だってそんな権限ないしw)ので、そこは誤解なさらないでください。


 第二に、視点を市場規模という漠然としたものさしにしても見ることはできます。
 基本的には、今のwebアニメ絵系(動画、静止画含め)を一定程度リプレイスできるかと思っていますが、あくまでリプレイスで、そこにはあまり市場規模増加という夢はありません。ただ、MMDの出力先が増えることで、3Dデータの共通化を通じて、よいキャラクターが生まれる可能性は高まると思っていて、キャラクタービジネスには正の効果があると考えています。
 実は一番注目しているのがここです。


 お前が見たい未来は何か、と問われれば、「好きなキャラで、僕たちが楽しめるリアル空間体験」と言いたい。これを言い換えれば、生身の芸能人でやっている産業空間に、アニメ的なキャラクターによる同種の、ひょっとしたらもっと面白い体験を載せるということです。そういう意味で、何度でも繰り返しますが、初音ミクのライブイベントは衝撃的で、アイドル産業を研究している者としても、この方向があったかと膝を叩いた感があります。
 こういう一種のAR的動きは、これまでもいくらもありました。リアルなタレントをバーチャルなもので置き換えようという動きはいくつもあり*7、ほとんどがリアルの代替としてどれだけ表現をリアルにできるかという面からアプローチして、「不気味の谷」に引っかかったり、うまくいってもリアル感に拘りすぎて、映像制作過程が不必要に重たくなったりした*8と考えています。
 逆にアニメ的表現からの接近はなかなかうまい成功例が出ませんでした。個人的には、ずーっと「トゥーンシェード」とかに興味があって見ていたのですが、それほど流行っているようには思えないし。プリキュアのエンディングはこの二年でずいぶん進化してきて、とても注目していますが、制作過程は少し重い気がする。
 MMD杯を見ていると、これならかなり制作過程の重さは軽減されてきたのではないかと思っていました。もちろん、ボーカロイドでも、パラメータ調整をするのではなくWAVに書き出してから波形加工する方がいるように、MMDで作った映像を別のソフトでイフェクト処理して仕上げる方も多いだろうから、そう簡単に言うわけにはいかないのですが*9


 初音ミクのライブイベントのようなシステムを前提にした非実在アイドル消費市場。これは、アイドル産業の外延ではありますが単純なリアルタレントの置き換えではないですし、今あるキャラ市場に単なる一つの出口が追加されたわけでもないと思っています*10。よって、これが生み出す市場は、純増だと考えています。
 そしてこれを垂直に立ち上げていくとすると、現在のMMDの動きとかを見ると、ユーザーにいろんなキャラを立ち上げてもらうプロセスがよいのではないかと思いました。もちろん、そういうオープンプレイスにいろんなプロフェッショナルも作品を投じてよいわけですから、その力を使わない手はない、と。
 もちろん、こんな面白い話を国内に閉じる必要もまったくないし、市場は広く構えた方がよい。だからこそ、「連携」「共通化」「標準化」という技術的な入り口から入っていき、またオープンプレイスとして世界中からファンを受け入れられるようになったらいいなぁと考えていたわけです。
 もちろんその時に、汗をかき、侠気を見せてオープン化する関係者がどう受益するかということは大きな問題ですが、それは第一の「事業者の経済効果」に帰っていきますので、重ねてはあまり触れません。


 因みに、敢えて煽りに乗ってみると、ここでこういう「キャラの国・ニッポン」的な意味で「クールジャパン」とシンクロするのではないかという見方もあると思います。年末のブログでも書きましたが、そういう可能性(危険性)はあるだろうと考えていて、その場合、まぁイベントくらいなら双方WinWinになるかなぁと感じているのも事実です。ですが、それもあくまで「キャラの国・ニッポン」が立った上で、その波及効果として日本の付加価値が上がるということであって、メカニズムを逆にしてはいけないと強く思っています(だからこそ「危険性」なのです。*11)。だからあまり「クールジャパン」との牽連性は強調したくないところです(まぁ、実際、遠いところの話ですし)。


 この新しい市場の市場規模を算定することは、多分、現時点では不可能です。もちろん皮算用でもやってみろというリクエストがあればやってみますが、時間が要ります。


 ただ、書いておきたかったこと、それはこう言うことです。
 私はクリエイタではない。だからこそ、クリエイタがもっと頑張って、もっといい作品が出るような環境作りにしか目が向き得ない。その中で、もっと競争的に作品が作られたり、もっと作品が鑑賞しやすくなるために、ある技術が他の技術、事業者と「連携」「共通化」すること、すなわち「標準化」をすることを促すような思考の枠組みがあることは事実である。
 それが当の技術を生み出した人達の利益になるか、と問われれば、はっきりしない。それはその人達のスタイル、戦略とも大いに関わるので、客観的にこうだと言える解は存在しない(だからこそ、年末ブログでも書いたように、関係者との議論が大前提になるのですが)。
 それらを踏まえてMMDの「標準化」に、個人的嗜好を越えてどういう「政策」「経済効果」を見いだすかと問われれば、キャラ産業の拡大を念頭に置いている。また、そこからの波及効果もあるだろう。
 ということです。


 すいません。いただいたお題の中で「政策」という言葉に強い違和感があった(元はといえば、Tweetの中で政府に懸念を表明するために「政府」という言葉を使ったことからくる混乱なのですが。そこの真意は年末ブログで明らかにしていると思ったので、もう一度重ねて「政策」と言われたため、強く意識してみました)ので、あえて長文でお返ししました。


 それにしても「標準化」という言葉は、自分も間接的に仕事でこれ(別分野ですけど)に関わっちゃったりしているので、いろいろ嵐を呼びやすい言葉だなぁと感じています。「連携強化」とかいう表現に全部切り替えたいくらいです。「標準」には権力とか強制的という感じが強いですからね。個人的にもあまり好きではない。注意しないといけないなぁと感じた年初であります。



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*1:別に感動でなくてもいいんですが、より「見たい」「見て良かった」と思わせるような、ということです。

*2:その評価はいろいろあるでしょう。自分は時としてもっと具体的提案をしたくなる時があります。が、例えば第五世代コンピュータみたいな例もあるので、慎重にやるべきだと思いますし、少なくとも権力行為としてはすべきではないな、と思っています。ソフト的なことなら自分で書いてみればいいし、あるいは開発者に耳打ちして納得してもらえるというプロセスでもいいんだし。

*3:といって、本当に照会されたら、僕に話が回ってきたりしてw。組織というのは往々にしてそういうもので、権限がない人間に限っていいように使われるものだからw

*4:ブログコメントにもありましたが、MMDの進化については、MMD杯を僕も見てますからよくわかります。制作環境は今いろいろ調べてますが、データコンバータとか簡易ツールを使い倒すやり方のようですね。コミPo!とかもっと他のデータとのコンバータが充実したらいいとか、後で本文でも触れますが、僕のようなヘタレのためには統合環境がもっと進化したらいいとか思ったりはします。

*5:なお、ここではあまり触れないが、オープン化は無料化ではないので、それを使う人、事業者から直線的に対価を回収するという考え方もあり得ます。

*6:こういう場合、勝手コンバータを誰かが作ることもあることは事実です。MMDの領域で様々なデータのコンバータが出ているように、ベンダーが動かない場合、世の中にニーズがあれば、勝手にそのニーズを埋めるように周りが動くというのは、よくあるメカニズムです。

*7:好例としては、ホリプロさんの伊達杏子を挙げれば十分ではないでしょうか。

*8:リアルをバーチャルで置き換えるなら、結局、単にリアルを記録してちょびっと加工する方がよほど費用対効果がよい。映画「ファイナルファンタジー」が陥った罠です。

*9:これが皮膚感としてわかるためには作らなくちゃいけないと思うのが僕の性分なので、新年の手習いはMMDで作品を作る!ということにしようと思っているくらいです。まぁ家にはWinPCが一つもないので、Mac+Fusionでやるしかないと思ってるんですが…。ただ、こう考えているからこそ、データの可搬性とか、或いは加工ツールやコンバータがバラバラある現状よりももう少し統合環境があったらなぁとか、考えるわけです。まぁここはヘタレの戯言かもしれませんが

*10:もしそうだとすると、消費者の可処分所得は一定なので、出口=コンテンツ間でゼロサムになってしまいます。

*11:仮に今の日本政府が支援する場合、目立つなというと、ヘソを曲げたり、支援をやめたりすることもありますから。支援事業は最終効果のためにするものですが、組織(政府や特定省庁や特定部局)内で自分が仕事をしていることの証明としてやる人もいますので。ここら辺は永遠の課題で、愚痴でしかないですからあまり長々書きませんけど。

ボカロとMMDに関して今朝考えてたこと

 さて、Twitterで、佐々木俊直さんのTweetを踏まえて書いたTweetから、クリプトンの社長さんとやりとりがありました。年の瀬、今年の最後にボカロについて考えていることを書いておこうと思います。
 長文になってしまって申し訳ないと最初にお詫びしておきます。


 まず、大前提ですが、何度もTwitterブログで書いているので今さらだけど、僕は経済産業省という役所に勤めていて、コンテンツ産業の視点も含めていろいろ仕事をしているものの、文化産業戦略とかクールジャパンといったものには一切関与していません。それはクールジャパンという考え方にあまり意味がないと思っているからだし、それを声高に叫ぶことそのものの費用対効果が低いとも感じているからです。そして、事実、クールジャパン関連政策については組織外の人達とほぼ変わらない位置にいます。そこは大前提です。


 さて、ボーカロイド(以下、ボカロ)ですが、自分はそれをコンテンツ再生技術(表現技術と言ってもいいかもしれない)の一つと理解しています。
 コンテンツ再生技術とは、知覚体験をデータ化する技術のことで、この技術の上でいろいろなコンテンツが生まれることになります*1。そういう意味では、ボカロの誕生は、文字と印刷とか、レコードプレイヤーの発明と同種の事件だと考えています。
 ネットとコンピュータの時代になり、webブラウザというコンテンツ再生技術が生まれました。ここからがそれまでのコンテンツ再生技術と違うところだと思うのだけど、このwebブラウザweb2.0への変化の中で、アプリ間連携を強く志向し始めました。サービスのマッシュアップと言ってもいいかもしれない。


 ボカロは、こういう時代に登場したとても面白いコンテンツ再生技術だと思います。
 白状しておきたいのだけど、件のTweetをした段階で、僕の考えには間違いが一つありました。それはボカロとMikuMikuDanceを少し混乱していたということです。自分はヤマハ音声合成エンジンを使って歌を歌わせることと、初音ミク鏡音リン、レンの3Dダンス映像との組み合わせをボカロと考えていましたが、それは間違いで、ボカロは前者(歌を歌わせること)のみであり、後者(ダンス映像生成)はMikuMikuDanceの領域だとしなければならないですね。ここは訂正しておきます。
 ただ、頭の中には両者が一つになったものがイメージとしてあったのは事実です。そこで、これをボカロと呼ぶことに問題がある以上、とりあえずMikuMikuDance(以下、MMD)と呼んで話を進めようと思います(これでも間違いかもしれないが。違っていたら、どこかでご指摘いただければ)。


 先だっての初音ミクライブイベントは、当日その場所にはいなくて、後からネット上のムービーとかDVDで見たのだけど、脳天をぶったたかれるような衝撃を受けたのは間違いないです。件のTweetを書くきっかけになった、佐々木俊尚さん( @sasakitoshinao )の"ボーカロイドの世界進出。日本の文化が世界市場の中でどのようなモジュールを取ることができるのかを考える時期。" というTweetで参照されていたブログ、Cool Japan: Meine Sacheを見てもそうだし、日々ボカロ話に燃えている朝日の丹治さん( @Tristan_Tristan )から話を聞いても、海外で受けていることはよくわかります。
 いろいろな理解の仕方があるでしょうが、何よりも、初音ミクという非実在のキャラを対象にして実在の人々が実際に集まり、楽しむ姿の、非実在と実在のコントラストが衝撃的だったことは共通でしょう。
 Meine Sacheにも書かれていたけれど、来年3/9の"初音ミク・ライブパーティー2011"には海外からも注目が集まっているらしいです。この日本から生まれた存在(こういう言葉しか見つからない言語センスの貧困は口惜しい限り)で、キャラのデザインからしてとても日本的なものが、海外から注目されているのは、やはり面白い。
 MMDが海外にどう受容され、どのように海外からの参加が生まれてくるのか、そこらへんは、来年、注目され、論じられるところだろうと思っているというのは、こういうわけです。


 さて、しかし、MMDはコンテンツ再生技術なのであって、今であればサービスのマッシュアップに対応し、様々なサービスやコンテンツ再生ソフトと連携して、連関して僕らを魅了する体験の一角を担うようになるのではないか。僕はそう考えます。
 プログラム間の連携を実現する方法にはいくつかあるけれど、煎じ詰めれば重要なことは、APIを整備し*2、またデータ形式をきちんと決めて公開することだと思う。
 ここで念頭にあったのはコミPo!で、ここでもキャラクターの3Dデータが重要な意味を持っています。コミPo!MMDの間でキャラデータが共有できたら面白いことにならないか、とか僕は割と素直に思っている。その方が面白く祭りができそうな気がして。


 こうしてMMDと他の3D系のソフトの間でデータを共有できるということを考えると、重要なことはデータ形式の共通化、標準化ということになり。
 だが、データ形式を共通にし、標準化するなんて言ったって、誰がどうやって決める?どこかの団体や、ましてやどこぞの政府がしゃしゃり出たってうまくいくわけない。データ形式なんて無視されたらおわりなんだから。そもそもMMDの中の人がそれをやりたくなかったらどうする?逆に、やりたければ自分で進めるでしょうし。
 それに、別に標準化なんていわなくても、データ間のコンバータ作ればいいということもあるし。


 で、"標準化"とかいうと、政府…という言葉が頭に浮かんでしまうのです。ここは仕事柄。
 そもそも、初音ミクのことを政府は気づいていないだろうか?いや、佐々木俊尚さん始め識者は続々と語っているわけですし、例えば経済産業省でいうと北海道局とクリプトンさんはお付き合いもあるわけで、もう十分気づいていると思っています。
 しかも、ここまでの思考の中には、「世界への展開」とか「データ形式の標準化」とか、嫌なほど脊髄反射で政府が飛びつきそうなキーワードが転がっている。こうした分野で政府が自分の都合でいろいろ動くと、失敗することが多いです。使いやすいものができない、(デジュールの場合)標準として認めてもらえない、果ては作っても無視される、と。いろいろな失敗のパターンがあります。
 もしこうした思考で政府が初音ミクやボカロ、MMDに触手を伸ばすとしたなら…。そりゃ恐怖です。こんなものに巻き込まれちゃいけない。
 第一、もしMMDの中の人(僕は直接コンタクトがありませんから)がそういう連携をしようと思っているなら、それを支援するという方法もあります。あるいは何も能力がないのなら、温かく見守って何もしないのが一番ということもあるでしょう。
 そして、一度政府機関(経済産業省でも総務省でも知財本部でもどこでもいいのですが)がそういうふうに目を付けたとしたら、僕には何もできません。だから、彼らが何をするか。せめて何もしないという選択肢を選んでほしい。そう思っています。


 もちろん、一番よいことは、政府の都合で無理なプランを押しつけたりせず、虚心坦懐、関係者とパイプを作って話してみることだと思っています。ひょっとしたら、みんなの利益になる方法があるかもしれない。それなら悪くない。けれど、ボカロやMMDの中の人とちゃんと納得ずくでやらないといけないですよね。
 ただ、ここで気になるのは政府というものの立ち位置です。政府が支援、と聞いただけで萎える人もいますし、怒り出す人もいます。元々、ネット上の人々の支持で生まれたムーブメントですから、そこら辺の読みは大事です。政府は分をわきまえなくてはならない。このことはかつてコミケの米澤代表ともよくよく話したことがありますが、今でも心に浸みて理解しているつもりです。
 それに、初音ミクに日の丸を付けるのも余計なイメージを付加してしまい、せっかくのミクを台無しにするようにも思えます。まぁここらへんは「国」と個人の関わり方の問題でもあるので、異論はあるでしょうが、自分はかなりネガティブです。


 つまるところ、初音ミクを日本という国家とは結びつけたくないという想いが、僕にはあります。


 そもそも自分はあまり「日本が勝つ」とか「日本が強くなる」とか、そういう主語としての「日本」には本来なじみはないありませんでした。今でも、自分が住んでいるこの経済圏が豊かで、私たちの生活が楽しいものになることには強い関心があります。ですが、それを「日本」という言葉では理解していないのです。時として「東京」だったり、「アジア」だったり、もっと別の言葉で考えた方がしっくりくると思うときもあります。
 ただ、仕事では、「日本」という言葉、概念と日々格闘しています。いや、一緒に戦っているというべきでしょう。
 そういう意味で、政府目線、つまり自分が政府の担当になったつもりで考えると、どういうことをするだろうか、と考えてみます。
 大々的な初音ミクMMD世界戦略を国が主導して…というのは幾重にもばからしい話なので、絶対やらない、と。標準化戦略とか環境整備も、そりゃボカロやMMDの中の人と連携していい形でできるならともかく、それを提唱はしたくないと。それでもなおかつ「日本」というものがより有利になる施策を考えるとすれば、それは、初音ミクを支えているこの日本のユーザー達の力そのものが世界を巻き込んでいくような構図を作るしかないのかな、と。
 その一つとして、例えば世界中からMMDのキャラが集い、歌い、踊るコンテストみたいなものを日本でできないか、と。ネット上でやるのはもちろんですが、初音ミクライブイベントのようなシステムを定式化できるのであれば、そこでのデータ形式も仕様を明らかにしてもらえれば、本戦はライブイベントでということもできるし。何より、日本のファンは一番の目利きですから、日本のファンが認めるものが世界一という文脈も素直に引けるかもしれないし…。
 もちろん、政府が前面に出るのはダメなことはいうまでもないですが。


 もし、自分が担当する立場になったら、こういうやり方を考えると思うのです。もちろん、これとても「日本」がテーマになっているような気がして、自分はあまり好きではありませんが。


 こんな想いを140字にしてみたらあんなTweetになったというわけです。


 と、まぁこんなことを考えながら、ボカロとMMDが切り拓いているところを、年明けからもっと勉強してみよう、考えてみようと思っているわけです。


 さて、これから年越しそばをゆでなくては。
 0:00の瞬間には、僕はおそばを食べているでしょう。
 そんなわけで、一足早く、年明けのご挨拶を。

 旧年中はお世話になりました(多分)。最悪よりはかなりましな一年だったと思います。
 みなさんがもっとハッピーになる一年になりますよう。もちろん、自分ももっとハッピーになるよう頑張りますが。
 メールと年賀状とTwitterでご挨拶できない方々にも、新年の言祝ぎを。
 フライングですが(w

 あけましておめでとうございます。



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*1:技術はコンテンツの蓄積に先行する。

*2:厳密な意味では違うけど、他のプログラムにプラグイン化して入れることも広義にはここに入れていいと思う。

広告費の配分効率化と全体のパイの増加戦略と

Twitterで @kurarix から興味深い主張があったので、コメント。全体としては、書生論に過ぎるかと思い、同意はできないのだが、とてもよい指摘を内包していて、自分の意見を書くことは意味があると思うので書いておきます。本当はTwitterでやりたいところだが、連投になるので、blog側に書きます。

 @Kurarix の主張はこちらを参照のことです。

 同意できない理由の最大のポイントは、【脳内検証】の議論は、アイボールの広告価値的評価を接触回数評価に単純に還元しているという意味で暴論だから。実際には接触の広告価値としての評価は多様であり得て、決定論的ではないが故に、市場を介して決めるしかない。
 もちろん、それが代理店とマスメディアの固定的関係を通して歪んでいるのだという主張はあり得るが、それを証明する物差しがない*1以上、その主張は採り得ない。あくまで現実論でいきたい。

 加えて、注5のマスメディアの過剰レント論*2は過大評価のきらいが強い。広告費の流れのうちメディアの「取り分」が多いという理屈だが、その取り分も結局は業界内で循環しており、真水としての「取り分」が如何ほどかは疑問である。こういうと必ず給料が云々という話になりがちなのだが、そもそも社員数はさほど多くはなく、その業界全体の金流に対する圧迫効果はしれたもの。
 ただ、固定的取引関係が多く全体としての非効率性は相当あるのではないかという観測は自分もしている。ネットも交えた広告費配分競争の中で効率化は進むだろうが、その効果くらいか。もちろん、効率化というのは、ネットの方が効率的で、それゆえネットへの広告費の配分変化によって全体の効率性が増すという要因もあるが、そもそもマスメディアの生産工程が効率化するという要因もあることを忘れてはならない。

 反対すべき論点はこのくらいだろうが、広告効果指標の進化が大事だという点については全く同感である。ただ、同感である理由は、それが広告費の支出原理を変える可能性があるからだ。

 現状を言えば、広告費の決定方法はプロジェクト全体の費用から丸めで決めている。このため、基本的に企業支出全体の中の一定割合になり、ひいてはGDPの一定割合になるということ。この一定割合が最近変化しているという事実は確認できているが、このかなり乱暴な配分決定論をそれほど変化させているとは確認できない。

 ただし、これが変わるべきではないか、という思いは、個人的には強い。

 もし、広告効果分析がかなり精緻に行えて、個々のプロジェクト毎の収入との関係性を合理的に計測しうるとしたらどうだろうか。期前に広告費を戦略的に割り増しで設定したり、プロジェクト全体の総収入から、広告費を追加支払いする余地が生まれる。これは、広告支出=広告産業の収入を(減少させる可能性もなくはないが、それ以上に)増加させる可能性があり、これは広告費GDP一定割合の法則を乗り越えて広告産業それ自体としての成長を促す可能性がある。

 もちろん、そんな技術進歩はなくても、単純に広告費の成功報酬は導入できるだろうという指摘はあるだろう。だが、現場的にはこれは企業の慣習とも関連した根深い問題*3であるし、そもそも期前に決める総額決定がえいやっの丸めでは、一定額を成功報酬用に留保しておいて、その中から一部成功報酬を出すということになるだろう。これは結果的に広告費の縮小になるので、企業の広告費を収入源とする産業としては絶対歓迎しないだろう。だが、広告効果の評価技術が十分発達すれば、単純に広告費縮小側に振れるのではなく、広告費増加側にも振れ得るので、事情は変わるかもしれないと期待している(ダメかもしれない)。
 一般論として、あくまで成功報酬を目指すのが、「事業」の本質であり、市場におけるイノベーションの根源と考える立場からは、是非こうした仕組みに移行してほしいところであり、それを推し進めるためには、ネットが持っているライフログの料理法高度化には強く期待している。

 以上の理由により、 @Kurarix の論旨には賛成しないが、広告指標の高度化には強く期待するものである。

以上。ぶひっ。


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*1:実はこの議論はマルクス主義対市場主義の議論に似ている。個々の単位事象は物差しがない限り等価だと仮定するのは一見合理的に見える。だが、現実はしばしばそうではない。因みに、この仮定は科学の現場ではしばしば前提であり、理系出身の人がマルクス主義に傾倒しがち(小生の周囲数メーター基準)なのはここに原因があるのではないか、と思ったりする。

*2:新聞社や出版社、レコード会社、大手映画配給会社、テレビ局などのマスメディアは様々な意味で「マスゴミ」とか言われて嫉妬の対象になる。もちろん非効率性やレントはあるのだが、あるかないか、ゼロイチの議論をしてもしょうがなくて、定量的な議論が要るはず。小生は、本文にあるような理由から、それを業界全体の隠し配分源と見るのは、各省庁の「隠し財源」論に近い誤謬があると思っている。

*3:広告費は使い切り前提で動いており、追加支払いが発生するかもしれないという可能性を嫌う。

お役所とコンサルと技術者の三角関係に関する補足


 どうしたものかと思ったのだけど、家族旅行中に連投ツイートを受けて、ちゃんと返せないもので、まとめてブログにアップ。



 事の経緯は、おおざっぱにまとめるとこんな感じ。

□先だって、「クラウド」に言及する研究会の資料作りに突然巻き込まれ、そこで「クラウド」と他のハード代替的ネットサービスソリューションとの異同をおさえていない点に驚いた。ただし、彼らも自ら「クラウド」に徒手空拳で突撃したかったわけではなく、そういう要望が委員の中にあることにオタオタしながら応えたという事情があった。
□さらに「クラウド振興政策」というのはすでに始まっており、ひょっとすると法文にも何らかのリファーが入るかもしれない。というか、入らないとクラウド振興政策にはならない。

■上記事情を想いつつ、クラウドについて「バズワードになっていて、定義もはっきりしてない。そもそもこうした構造を法律でどう書くものか難しい」とツイートした。

■そこに @finalvent から、クラウドにはNISTの定義があるのでそれでいいではないかとツッコミが入った。技術者はNISTの定義で合意しているので、それを使えばいいというのである。

 法律は用語の体系が、特に名詞については閉じている。つまり、一般語として自明なもの以外法文内で定義されていることを求めている。よって、日本の法令ではないNISTの定義は、それ自体、日本法の次元では無意味である。したがって、これ*1をきちんと日本法で参照しようとすると、なぜNISTの定義を法文上の定義にするのか、というところが内閣法制局で突っ込まれる。技術者がそれで合意している、と言えば簡単なところだが、そうは問屋が卸さない。

 問題は、世の中でクラウドについてこうだと説明する内容がいくつもあることだ。NISTの定義以外にも、いろいろな説明が横行している。そこで、技術者が合意しているというのであれば、それが法文上の定義になることを阻んでいるのは、このNISTの定義以外の定義or説明であって、よに流布しているものということになる。

■そこで、技術者の間ではNIST定義が共有されているのなら技術者の力でこうした非NIST定義を潰してくれれば、役所も対応できるのだが。と返した。 @finalvent からは、時間の問題ですというので、こちらからはその時間がないんだよと答えた。ここでこのツイートは終わった。

■ところがそこに @kmotoyoshi から、NIST以外の定義なんてあったらご教示願いたいとややきつい調子でツッコミが入った。

 こういうツッコミが入る場合、たいがいは何か背景事情があるので、とりあえずプロフィールを見るのが常套である。っつーと、なーんだ、 @kmotoyoshi はNIST以外の定義をいろいろ振りまいていると例示したガートナーの中の人なのであった*2

■そこで、実際「クラウド 定義」とかでググるといろいろ出てくるので、ネット上であるよとやんわり返すことにした。

■すると、 @kmotoyoshi から、NISTの定義については説明している/しかし自分たちはコンサルなので相手のためにあれこれ説明することはある/それを捉えてそうした説明を「潰す」という言葉は文脈を見ないと誤解を生むから拙い、とツッコミが入った*3



 で、ですね。
 これはとても重要な構造を示しているのではないかと思ったので、ちょっとまとめておくことにしたわけです。

 すなわち、技術者(代表として @finalvent 。ゴメン、代表にして。そしてたった一つのサンプルを代表にして説明される技術者の皆さん、ゴメン)とコンサル(代表として @kmotoyoshi 。ゴメン、代表にして。そしてたった一つのサンプルを代表にして説明されるコンサルタントの皆さん、ほんとにゴメン)と役人(僕が見ている人たち)のこんな三角関係である:
 技術者はこういう:クラウドには技術者としての共有された定義がある。それを法律で使えばよろしい。
 コンサルはこういう:クラウドには技術者としての共有された定義があるが、それ以外にもクライアントによくわかるように様々な説明をしている。それは業務上正当なことである。
 そして官僚はこういうだろう:クラウドといえば技術者も一般企業もわかるように、含意を統一してくれ、と。

 実は、この構造にはある種の甘えが入っている。
 まず、身内から議論をすれば、官僚と官僚機構がそうした世の中の理解をバキバキ切り捨て、技術者に共通のNIST定義(正確にはその日本語訳)で行くと政治決定する能力があれば問題はないからだ。現実はそうもいかないことも多いが、それは理想論に立って見れば甘えに過ぎない。ここは甘えと敢えて言っておく。

 だが、それだけなのだろうか?互いの正当性を言い合って話がかみ合わないのはある種の構造問題。それぞれの役目を踏まえて、改善や努力を目指すのが正しい態度だと思う。そこで、官僚機構の側がこうした問題を認めているとして、ここで技術者やコンサルはどういう改善を考えるんだろう?それとも改善点などないと?
 官僚機構が理想的なパフォーマンスを示せばいいのであって、自分たちのあり方に問題なかった/ないというのは、逆に、官僚機構への甘えではないか?*4

 つまり、本来の連携の形とはこうではないのか:

 技術者:クラウドには技術者としての共有された定義がある。それを世間にも広めていく(本来の技術者の責務ではないと思うが、こういう寄り添いかたをする)
 コンサル:クラウドには技術者としての共有された定義があるので、クライアントには常に技術者の共有された定義を参照し、独自の説明法は控えるか、ことばを変えたり修辞を明記したりして混乱がおきないよう留意する。
 官僚:クラウドの中で技術者とコンサルやメディアの用語法の共通部分(核心部分)をセンス良く取り出し、早く政策に打ち込む。

 というわけで、蓋し、技術上は統一されているというのであれば、少なくとも技術にかかるコンサルであればそれを混乱させるような説明は禁じられるはずだ。実際web上でもいくつもの定義がある例えば「クラウド」について、「一般的なクラウドの説明」としてNISTの定義を援用し、「あくまでうち(コンサル)が考えるクラウドの例」とか「クラウドによって可能になること」としていろいろなことを説明すればいいのであって、努々「クラウドの説明」がずれないようにするべきなのである。
 よって、技術上用語法が統一されていて、世の中でもそうあるべきなら、それと違った用語法は「間違った用語法」になるわけで、間違った用語法は「潰され」てしかるべき。さもなければ、そもそも用語法が技術者の合意に従って統一されるべきではないということ*5。ここのところは、むしろ @finalvent と @kmotoyoshi に話し合ってもらいたいところであり、少なくともそれを待つ現時点でこの表現は撤回する必要はないと考えている。



 よろしいか、技術者が編み出した技術用語を、コンサルやメディアが拡張したり変形して説明してバズワード化するということはよくある。それに政府が対応を迫られ、振り回されることもしばしばである。まず、私はこの状態を「問題である」と考える。


 よって、問題はこうした状態を如何に改善するかなのである。そのためには、技術者やコンサル、いやさ、メディアや他の業界関係者もですが、その協調的な協力が要る。ということは、私たちはちゃんとやってますということではない。問題が起きているのだから、少なくとも現時点で不十分な点があると言うこと。それを認めて、さあどうしようかと胸襟を開いて考えること。きちんと言葉を交わす態度というのは、そういう中から起きると思う。



 なかなか会話や論議をするのは難しいな、と感じた連休である*6。というところで、この項おしまい。





P.S.今回のやりとりの中でいくつか個別のコメント。


1. 長い文章はやはりブログその他の方法で書くべきで、tweetの連投は、失礼だとは思わないけど、あまり美しくないと思う。twitterはそういうものではない。


2. NISTのクラウドの定義は、それ自体、法文として参照するのは極めて厳しい。これを法律として耐える形の日本語に落とすのはやはり骨が折れるな、という感じ。技術レベルでは皮膚感としてアリかもしれないが、もう少しブラッシュアップしてほしいというところ。






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*1:正確には、その日本語訳であろうが

*2:ちなみに、もう一つ例示してしまったIDCからは何にも反応は無かったw

*3:もう一つツッコミには「立場上」ってのがあったが、自分はそういう「立場」でtweetすることはほとんど無いので、多分誤爆だと思うから、そこはスルー。

*4:ちなみに、誤解するクライアントが悪い、いやクライアントが誤解するような言説を振りまくメディアが悪い、という指摘もコンサルにはあるでしょう。ただし、それは逆ギレだと思う。

*5:言葉は日々進化するので、そこを捉えて、そもそもこういう風に考える考え方もある。

*6:こんなのを子供抱えてロムニー鉄道乗りながらiPhoneで読んでるんだから、お父さんも大変であるw

9/1アップルイベントを振り返る。

9/1(米国太平洋時間)にAppleが発表した各製品群について所感を述べておくにょ(これ仕事らしいからにゃ)

iPodには迷いが出てきたな…
 iPodについてはコメントすることがない。敢えて言えば、iPod touchが「通話機能のないiPhoneである」ことがこれ以上ないくらい明確になったこと、iPod nanoが壊れた(笑)こと、iPod shuffleで初めて「先祖返り」*1が起きたことくらいか。

■iTunes10のPingって…
 最も重要なのは、これである。
 コンテンツの編成表を巡っては、従来の供給者の独占的供給が様々な技術革新で段階的に消費者側の手に渡ってきた。その現時点での最終形態がGoogleSearchに代表される嗜好データに基づく抽出である。しかし、そこでは「自家中毒のパラドクス」*2のために、何らかの第三者の介入が必要になる。
 問題は、その第三者の介入はどのように為されるべきか、ということだ。介入が必要だから、少なくともレファレンスとして供給業者の編成表は意味を持つ、という考え方も十分にある。だが、それは余りにネット空間の発生を無視していて、なんだか別の方法がないかと思いたくなる。
 そこで、Ping、つまり、コミュニケーションの中で嗜好が交錯するところから、意外な提案を受け入れるようになるメカニズムを活用するという考え方が出てくる。
 実は、Appleらしいのだが、ここに至るまでiTunesは段階的に進化してきた。まずプレイリストを導入し、それを互いに参照できるよう相互公開させ(iMix)、それをベースにシステムからの編成提案を導入し(Genius)、そうしてようやくこぎつけたのがPingである。この手のサービスの場合、個人の視聴履歴を解放してもらえるかどうかが鍵なのだが、ここに至るまでの段階的措置は利用者の精神的ハードルをかなり下げている。期待は十分できる。
 問題はなくはない*3が、期待はできるだろう。

■新AppleTVってさぁ…
 それ以上に論評のネタに最適なのが新AppleTV。
 まず、新AppleTVはローカルストレージを無くして完全ストリーム端末にした。中身はほとんどiPod touchという話もあるが、徹底的低価格でとにかく買わせる戦略か?
 とはいえ、一番のツッコミどころは、Netflixとの提携ではないか?
 音楽販売ではiTunesMusicStore以来一貫して自社サービスで圧してきているAppleだが、映像ではそれを放棄したと言うことだ。とはいえ、実は映像ではすでにYouTubeと提携していたので、目新しいことじゃないんだがw
 だが、AppleiPodで切り拓いたデバイスクラウド生態系のビジネスモデルはAmazonや他のビジネスにも波及していて、中にはAppleより先行したものなんていくつもある。デバイスレベルで競合する相手と組むのは?だが、少なくとも先行するサービスとは組みうるわけだ。
 だが、そう来るとAppleTVの優位性は何かと言うことになる。一つはiTunesサーバとの親和性であり、家庭向けサービスとしての使用感の向上だ。或いは、冒頭に指摘した低価格(TV買い直しにならないということも含む)もあるだろう。だが、おそらくAppleが狙うのは(成功するかどうかは別にして)ユーザーエクスペリエンスの競争力だろう。
 というわけで、境は、次にAppleが強化してくるのはFrontRowだと思うのだよね。ひょっとするとFrontRowとiTunesのインターフェースの融合を狙うとか。
 ただ、個人的には、長年言っているように、(有料)VODが全ての始まりであり、これを越えずに何人も次には行けないということをAppleTVが証言してくれたのがよいと思うのだよ。

*1:一度捨てたデザインをもう一度復活させること。アップルはなかなかやらない。

*2:自分で選んだコンテンツだけを消費すると、一見して自らの嗜好に合うので効用が最大化しそうなものだが、実は過度に予定調和になって、飽きが来やすいということ。

*3:事実、すでにPingセキュリティホールになったとの指摘がなされているし